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Tegla Laroup Peace Race in Kapenguria,Kenya取材記

ある11月、IAAF広報から元女子マラソン世界最高記録保持者テグラ・ラループ(ケニア)が、地元で主催する第2回「平和レース」に招待するeメールが入った。誰かを誘ったのだろうが都合がつかずに断られ、ぼくのほうにお鉢が回ってきたのだろうと思いながらも、礼儀として電話を入れて担当者と話した。
テグラを合宿先のドイツ、ケニアのナクルで取材したのはかれこれ10年前になろう。まだ、テグラは長い現役選手を続けている。彼女の出身地はケニアの首都ナイロビから北西約500km離れたウガンダ、スーダン国境地帯のカペンギュリア町だ。

なぜ、テグラが「Peace Race」と名付けてレースを主催した動機をここで簡単に説明しよう。
この地方の主力部族は、ポコット、トルーカ、ケイヨ、カラモジャ族と呼ばれる。これらの放牧民族が、強弱強食の原始的な論理で生存を謀るのだ。貧しい部族は、他の富める部族を襲い牛、羊を盗む。また、家畜放牧土地、水争いなど、部族間で時には殺戮を繰りかえす状況にあるからだ。これらの伝統的な生活を営む放牧民らは、ソマリア、ウガンダ、スーダン国境を越えてこの東アフリカの広大な土地を行き来している。
近年、ソマリア国内紛争からの武器が大量流れ込み、沿岸近辺では年間数千人の死者をだしている。しかし、政府は部族の原始的な伝統の抗争にはソッポを向き解決に努力をしようとはしないという。
ポコット族のテグラは、この根深い部族抗争に少しでも解決を見出す努力を思い立ったのが「平和レース」と呼ばれるものだ。

昨年、第1回レースが開催された。テグラはこれらの殺戮を続けてきた異部族が同席に付くことさえ拒否してきた状況から一転、「平和レース」の意味を説き、部族間に同調、和平条約を結び付けて成功した功績は大きい。
とは言え、根本的な貧困からの脱出がそんな簡単に解決ができたのではない。依然、水面下では一触即発な緊張した状況に変わりはないらしい。
それゆえ、テグラはこのレースを毎年開催しつづけることが大切と説く。テグラ自身の影響力、経済力を酷使して、貧困ゆえに起きる部族抗争問題を、ケニア国内と世界のメディア露出を考えて内外のジャ−ナリストに訴える努力をしているのだ。

今年11月20日、第2回目「平和レース」がIAAF、IAAF副会長、テグラと親しいジョギングの好きなスエーデンケニア大使夫妻、国会議長、国会議員らの政治家、キプ・ケイノ、モーゼズ・タヌイ、キャサリーン、ンデベラ、ジョイス・チェプチュンバらの陸上関係者の友情あるバックアップで開催された。
このレース開催1週間後、ポール・タガートがケニアの首都ナイロビで、ライバルで友人のハイレをエチオピアから招待して、世界から「地雷」撤廃運動を掲げたレースが開催された。日本では元マラソン選手だった有森さんが同じような問題に関わっている。

以下はそのケニア取材ノートです。

11月17日、長い1日が航空券の発券のゴタゴタからスタートした。
IAAFから指示されたエアーフランスカウンターで、発券されるはずの航空券がない!!6時55分発便、続く7時15分初の便にも乗れず、ひたすらKLMカウンターは7時15分開始を待った。
最近、共同運航を始めたエアーフランのカウンターでKLM便を扱う“オネーさん”は、珍しく親切だった。「ごめんなさい。カウンターが開き次第手続きをしますから、無事ケニアまで行けますからご心配なく!」と・・・笑顔だった。
オネ−さんの言葉に半信半疑だったが、このオネ−さんは仕事ができる。KLMのカウンターが定刻に開くや、テキパキと発券、搭乗券を渡してくれるまでわずか5分だった。「フランス人だってヤリャアできるんだなあ〜」と、妙なことで感心した。

ところが搭乗券を受け取って喜んだ瞬間、なんらかの拍子で眼鏡のフレームが折れた。老眼がなけりゃあ、なにも読めない。搭乗前、25ユーロの眼鏡を購入した。早朝の店員は客を無視して電話の無駄話中。止める気配もなし。まあ〜、こんなのはパリ市内ではそれほど珍しくはないが・・・。
ところが購入した老眼鏡が機内で新聞の活字がよく読めない。どうも眼鏡の度数を間違えたらしく、新たにアムステルダム空港内で度数が合うものを8ユーロで購入した。
ぼくは通常、機内の座席は通路側を好むが、欧州からサハラ砂漠上空を昼間飛ぶときだけ窓際にしたい。サハラ砂漠を機上から好きなだけ眺めることができるからだ。機が定刻に飛び立ちアルプスを飛び越えると、イタリア半島南の山の峰がすでに真っ白な冬化粧だった。
空から眺める紺碧の地中海は美しい。アフリカ大陸の海岸線とリビアのサハラ砂漠が色鮮やかだ。ここから巨大なサハラ砂漠上空を飛び始めるのだ。サハラの表情は刻々と、光で地表が微妙に変化する。それを飽きずに眺めるのが楽しい。砂丘をイメージする砂漠はほんの少ない部分で、大半のサハラは小石混じりの砂利だ。

ぼくは1965年ごろ、アルジェリからニジェールのアガディスまで南北サハラ砂漠を横断。1年半後、サヘールの国、西、中央アフリカをこまめに旅してから、その逆の行程を歩行、ヒッチした経験がある。
北アフリカ4カ国の旅の経験もある。カイロからナイル川に沿って南下して砂漠、パピルスの群生する湿地地帯、ジャングルのスーダンを越えて、ナイル河の水源ヴィクトリア湖まで溯ったことがある。
しかし、リビヤのサハラ中央部には足を踏み入れた経験はない。わずかにチャド湖から遠くにサハラを見ただけだった。黒々した岩山も所々に見える。ワディ(乾いた河)の流れに沿って、蛇行して緑の生存を発見できる。

窓から下界を眺め良き昔を思い出し、ビールを飲みながらひととき悦になる。楽しい想像を連想できるからだ。リビアサハラ砂漠からスーダン、エチオピア、ケニア上空を飛行して、無事定刻にナイロビ空港に着陸した。
ナイロビはビザ料50ドルを支払うだけで簡単に通関できる。心配した荷物も無事に受け取り、出迎えてくれた男の車で市内の目抜き通りの“スタンレー”ホテルにチェックイン。夕食を摂って早くベッドに入る。
この時すでに18時間を経過、長い1日がヤッと終わった。

11月18日、カペンギュリヤホテルで

雨季でもないのに、気温は18度とか。今にも雨が降りそうな空模様だ。15年ぐらい前、ここのホテルに泊まった時は安く、市内のド真ん中で都合が良かったが、最近は高級ホテルに模様替えした。
迎えの車がくる間、朝食後ホテルの周りを散歩しながら写真を撮る。
現地の案内人がスケジュール変更を告げた。ナイロビからエルドレッドまで飛ぶ予定がカペンギュリアまで「マタトゥー」と呼ばれる乗合ミニバスで行くことになった。同行者は、3人のイタリア人、2人のフランス人とぼくの合計7人だ。8時出発の約束が、とうとう10時になって出発。ナイロビを出てから50kmほど走った郊外の「地球の亀裂」と呼ばれるリフトヴァレーの展望台がある。ここで早くも小休憩、なんだか半分観光気分の人も混じっている。
ナイロビから西150km町ナクルでまた小休憩だ。高地練習をしているオランダ人夫妻をピックアップ。ナディアはロシア生まれの28分台のマラソンランナー。ジョイス・チェプチュンバ夫妻の世話で冬はナクルで合同練習をするらしい。

ナイロビ〜エルドレッド間の道路はこれまでなんども走った経験があるが、あの抜けるような紺碧の空が見えない。たっぷり日焼けを期待したがTシャツ、ショーツでは涼し過ぎる。
予定よりかなり遅れてエルドレッドに到着したと思ったら、O氏の薦めでモーゼズ・タヌイ家に立ち寄り旧交を温めるという。どうやら今回のグループは、人によってはかなり目的が違うようだ。中には全く観光客が混じっている。
ここでお茶をご馳走になり45分ほど時間を潰す。モーゼズらしく、とてつもなくどの選手の家より巨大な敷地に巨大な家だった。

重い腰をあげたのは6時ちょうどだった。すでに8時間が経過、残り距離は約2時間の行程はかなりキツイ。しかし、エルドレッドを出てから交通量も少なく予期した以上に田舎道の道路状態が良かった。
カペンギュリアのホテル到着は8時半、約10時間の長旅を終えた。腰が痛いと悲鳴をあげた人もいた。テグラ所有のホテルにチェックイン。荷物を部屋に投げ込むようにして、すぐに、ここから9km離れた山道を通ってテグラの牧場に向かう。
ゲートの前にくると、家族とここで働く女衆が大勢待ち受けていて歌え踊りで我々を歓迎。ここで夕食をご馳走になる。

11日19日、電送に往復230km走る

昨夜、電気を消した途端、蚊の来襲に起こされ天井から下がっている蚊帳を広げて寝た。
7時起床。このホテルには食堂がない。朝食は200m離れたレストランで朝食をとる。アフリカにしてはテキパキしたサービスで客を待たせない。
テグラの弟、丸く太っているジャクソンが約束時間に車でくる。ガゼッタ・デル・スポルト紙のピエアンジェロ記者と一緒にテグラの家に行き取材開始。撮影と電送依頼を請け負ったので、この日の夕方に送信しなければならないからだ。


昨夜、真っ暗で周囲が全く見えなかったが、美しい牧場が見えた。牧場は80エーカーの土地。そこに肉、ミルク牛50頭、数百匹の羊、トウモロコシ畑のド真中に大きな家がある。
テグラはひっきりなしにここを訪れる客に、驚くほどのエネルギーでもてなす。アメリカ留学の妹を始め、家族全員、牧場で働いている人たちも一緒だ。数人のジャーナリスト、カメラマンに答えながら、女衆にテキパキと指示を与える。
車で各部族の“戦士”が集合している場所に行く。テグラが涙を流さんばかりに「和平」についてポコット語で話す。その言葉を4ヶ国語に訳す。テグラの迫真の説得力が効を奏したのか、全員が真剣に熱い議論が交わされた。
ある男は部族間の殺戮は「あるところから盗む、貧しさが原因だ」「他民族に井戸の水を飲ませない」「放牧を許可ない」など、部族、家畜の死活問題から発展してきた闘争という。

ホテルに戻り、車でピエルアンジェロとエルドレッドに向かう。約2時間後、エルドレッにあるキプ・ケイノのスポーツ店でかれの娘さんにインターネットカフェを聞くと、案内してくれた。
ここでバッタリ、ボストンマラソン3連勝したイブラヒム・フセインと鉢合わせ。ヤフーを使って6枚を伝送途中、突然停電!!大慌てしたが部屋の中は真っ暗。バッテリーがなんとかギリギリで持ってくれた。
おかしなもので写真は無事送れたが、原稿は送れず、とうとう電話で原稿を読み上げていた。この日は昼飯抜き。食事を近くのホテルで済ませると7時過ぎだった。

夜、ケニアの道路を走るのは危険だ。道路幅は狭く、路肩は崩れている場所が多い。そこに対向車がロングビームを付けっ放し。一瞬、目が眩む。ヒヤヒヤしながらの2時間、ホテル到着は9時を過ぎていた。

20−11‘04、レース中は快晴、レース後は豪雨

今朝も7時に起床。土曜日なので町は静まり返っている。快晴、太陽が眩しい。やっとケニアの高地の太陽を浴びることができた。

レースは9時からとか。とにかく、時間がはっきりしないので支度をしてスタジアムに向かう。警察、銃を抱えた兵士が道路を閉鎖しているが、どこからとなく車、トラック、長距離タクシーがコースに入ってくる。
子供たちの2kmレースから始まった。キプチョゲ・ケイノが国旗を振り、モーゼズ・キプタヌイがスターター。次に女子2kmレースだ。
象徴的なVIPレースに国会議事委員長、IAAFドイツ副会長ら、ケニア国会議員、ケイノ、キャサリーン・ンデベラらが「平和レース」シンボルとして参加した。
かれらを数100m走って撮影。2100mの海抜では肺が破裂しそうな呼吸困難に陥る。ホント!!死にそうだ。頭が“ジーン”として究極の酸欠状態を味わった!!

スタジアムの中では、ポコット族「戦士」のダンスが始まる。ランナーがゴールすると、アフリカでは珍しい立派な参加記念メダルが首に掲げられる。
一般男子、「戦士」達のレースがあった。この「戦士」の意味が良くわからないが、聞くとどうやら「戦士」とは家族の伝統的な継承で、なんとなく日本の武士階級的なものらしい。実際目の前の「戦士」達は、長い槍を持って着飾っている。愛嬌があり、ホント強そうではなさそうだ。
総てのレースは2時間程度で総てを終了したが、問題はケニア人の伝統ある“チョ〜”長いゲストの「スピーチ」だ。来賓ゲスト、ほぼ全員が祝辞の挨拶を述べなければ式は絶対に終わらないのだ。それでも大勢の人たちは飽きもせずに立って聞いている。

11時から始まった来賓の長い「スピーチ」は、なんと1時になって延々続き終わらないので一端ホテルに戻った。しばらくすると、急激に変わった天候は、バケツでも引っくり返したような豪雨が降り始めた。
たちまちに道路は小さな赤茶けた川ができた。すぐ止むだろうと思った大雨は約2時間降り続いた。やっとことで来賓スピーチは雨のために中止された。

夜はテグラの家で夕食を取る。ウガンダからポコット、カラモジャ族の人がテグラの家にやってきた。
東アフリカ特有の飛び上がるダンスを習う。よく見ると男女のリズミカルな垂直飛びは異なる。男は高く飛べるのが尊重されるが、着地にワンテンポ遅れて勢いをつけて飛ぶ。女の人は高さより着地と同時に呼吸を置かないで連続して垂直に飛ぶ。
これを女の人たちと連続して飛ぶのは、高地のため息が切れて長くはできない。
夜中、トタンに穴があくのではないかと思うほど叩きつける激しい豪雨が続いた。

21−11‘04、パリへ

昨夜、「とにかく『May be』だけは止めてくれ!」と、我々の運ちゃんにきつく朝の出発時間を厳守するように伝えておいた。
二人のジャーナリストは、「非文明な土地、PCで世界と連絡がつかない土地では耐えられない」と言い、長居は無用とでも言いそうな態度を示す。

カペンギュリアを出てから9時間後、ナイロビ空港に6時過ぎに到着した。すぐに チェックイン。22時半、機上の人となった。

(望月次朗)

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