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ドゥワイト・フィリップス
ボクの時代がやってきた!世界記録への挑戦、世界選手権2連覇を目指す

アトランタ空港に降りたのは五輪以来だ。あの時はムッとする暑さだった。今回はアパラチャタン山脈からの吹き降ろしが寒い。空港内は汗ばむほどだが外気は2度。気温差は裕に20度以上ある。シャトルバスが何時にくるか、誰に聞いても定かではない。寒風に曝されて待つこと90分。この空港からさらに東北160km離れたゴルフ名門コースのオーガスタに近い、1785年創立されたジョ‐ジア大学の町アトランタが最終目的地だ。

ここで男子走り幅跳の世界第一人者ドゥワイト・フィリップス(27歳)を取材する約束だった。かれは“スター街道”をまっしぐら。短期間で男子走り幅跳で世界の頂点にジャンプした男だ。93年、室内世界選手権、屋外世界選手権を征して勢いに乗った。そして、アテネ五輪決勝は初回の跳躍で勝負を決定、会心のジャンプ8.59mをマークしてあっさり優勝した。五輪後、アリゾナから再び故郷に拠点を移し、新コーチの元で練習を再開。11月13日、元走り幅跳選手だったバレリー・ウイリアムス(元走り幅跳選手、最高記録6.81mと華燭の宴を挙げた幸せいっぱいの男だ。

冬季練習を始動したのが11月21日と言う。冬季練習で、フィリップスの助走スピードは文句なしだが、荒削りな踏み切り、技術的な未熟な着地をチューニングアップ、大躍進を計る。05年の目標は「走り幅跳で世界選手権連勝、史上初の9mの大台への跳躍、100mを9秒90の挑戦だ」と明確に答えた。
親元を離れケンタッキーに移り、広い世界に飛び出す

ジョージア大学構内は、4万エーカーの広大な敷地を持つ。大学のシンボル「アーチ」と呼ばれる小さな門が北側のダウンタウンに面した正面に在る。そこを通って一歩構内に入ると、大きな建物の前に立て札がある。それは1961年1月9日、2人の黒人学生が創立以来始めて入学を許可された日から40年周記念して、勇気ある2人の名前を命名した建造物だった。つい先日まで、南部の大学では人種差別が徹底した歴史的事実が存在していたのだ。そんなことを考えながら、起伏のある樫の巨木をぬって構内を南に向かう。ジョ―ジア大学は、全米屈指の大学フットボール名門校だ。ここではフットボールは“宗教”だと説明してくれたシャトルバスの運ちゃん。とてつもなく大きな10万人収容能力のフットボールスタジアムは谷を挟むようにして建造された。巨大なドームも見える。バスケットも強豪らしい。30分ほど歩くと、スペック・タウンズ・トラックと呼ばれる陸上競技場が見えた。この日、雲ひとつない快晴だが、北風が強く零下3度。棒高跳の助走路は氷で真っ白だった。

―(前日、ハワイから帰ってきた)ハワイでの練習はなにが目的だったのか?
DPーぼくの友人ブライアン・クレイ(五輪10種目2位) 、かれの企画に賛同、ハワイで200人の子ども達にクリニックに参加した。ぼくの出身地でも同じような企画でコミュニティの子供達にクリニックはもう何年も前から開催している。子供たちの人生が少しでも良い方に向かえばと思っている。また、ブライアン、アダムス(男子砲丸投げアテネ2位)らと一緒に、バルコ社ドーピング問題で吹き荒れている国内で、我々のようなクリーンな選手の存在をアピールした。ブライアンは、ブッシュ大統領の「War on Terro」をもじった「War on Drugs」を唱えていたね。

―シーズンの本格的な練習再開はいつからか?
DPー11月21日。今が最高にきつい時だ。五輪後がいろんなことで練習時間が取れなかったので、いつもより冬季練習が遅い。今冬は一切室内競技出場は考えていない。

―ジョージアに戻り、コーチを変えた?
DPージョージアと言うが、ぼくの出身地はここから60kmぐらい離れたダカトォーと言う町。ぼくは冗談に「ジョージア州都はダカトォーだ」と口にするし、生まれ故郷は世界で最も素晴らしいところさ!(笑う)高校卒業後、ジョージア大学からもかなり良い条件で入学を進められたが、ケンタッキー、アリゾナ州立大学のスポーツ奨学金を受けた。理由は簡単さ。親元を離れ広い世界に飛び出たかったから。それも満喫したし、結婚することで故郷に戻ったわけさ。そして、ここでポール(32歳、ドイル)のコーチを受けることになったわけさ。

―この土地は伝統的にスポーツ環境が整っているのか?
DPーかもしれないね。少なくともうちの家族は兄弟3人とも全員フットボールだし、ぼくは最初興味を持ち出したスポーツはバスケット、陸上競技だった。陸上競技は8歳からクロカンも含め、ほとんど総ての種目を経験した。しかし、14歳の時バイクに跳ねられて両足骨折。医者が再び歩くことは不可能と言われたが、順調な回復、母親ローラの懸命なリハビで完全復帰したのさ。

―高校生の時の記録は?
DPー走り幅跳は7.14m、三段跳、15.39m、200m 20秒90、400m 47秒50の4種目をこなしたが、バスケットが最も大好きだったね。

―なぜ、地元のジョージア大学に行かなかったの?
DPー本当にたくさんの大学から奨学金の提供があったね。ジョージア、ケンタッキー大学など、奨学金の条件は似たようなものだったが、全く未知の環境で家族から離れた生活なんて、カッコーイイ冒険のチャンスさ。

―そこでの成績は。
DPーそんな悪いわけがないよ。(笑う)この時点ではバスケットは止めていた。ケンタッキー大学じゃあ走り幅跳(7.26m)、三段跳び(15,70m)、200(21秒01),400m(46秒70)4種目の選手だった。

―いつごろから本格的に走り幅跳に転向したのか?
DPー1998年アリゾナ州立大学に移籍したから。ここでグレッグ・クラフト・コーチの薦めで400mと走り幅跳の2種目専門の選手になった。転向きっかけは、実は、あのころ大学に走り幅跳にイイ選手がいなかったからさ。今と比べれば、遊んでいるようなものだが、あのコーチのおかげで今のボクがある。

―やはり、カール・ルイス、マイク・パウエルらが、あなたのアイドルだったのか?
DPーもちろんだよ!いつかはかれらのようになりたいと夢を追ってきたんだ。

―シドニー五輪トライアルで2位、五輪で決勝進出して8位、01年、エドモントン世界選手権決勝進出したが競技中に左ハムストリングを痛めてまともに跳べず7.98mで8位だった。当時、世界を相手にして、どんな印象を受けたか?
DPー学校を卒業した年。決勝進出が目標だった。シドニー五輪はぼくだけがアメリカ選手で決勝進出を果たした。あれが精一杯。エドモントンはメダル獲得のチャンスがあったが、3回目の跳躍で故障したが、実力、経験不足だったね。当時、アメリカは新世代が手探り状態。外国選手が圧倒的に強かった。02年、初めて欧州遠征、自己新記録8.38mを記録した。あの遠征で世界に手が届くのを感じてきた。

―そのころのライバルをどのように思いますか。
DPーペドロサ、ストリングフェロー、ベックフォード、ラメラら、強い選手が大勢いた。かれらに追いつけ追い越せと必死だったさ。

―あなたは03年が急成長した年だった。
DPーやれるとおもったね。室内のライバルはミグエル・ペート、サヴァンティ・ストリングフェローだった。この一人を破らなければ世界選手権大会に出場できない。バーミングハムでは、ラメラ(スペイン)と激戦。かれが最後の跳躍で8.28mを跳んで首位。こっちも負けずに最後のチャンスで応えて8.29mを跳躍、1cm差で競り勝った。あの勝利は大きな自信になったね。あの瞬間、世界の頂点との距離がグーと近くなった。

―パリ世界選手権のほうが楽勝だった?
DP―それはないよ(笑う)  同じ年に室内、屋外世界世界選手権を征したのはペドロサだけ。ボクも同じことを狙ったんだ。アメリカ選手権で優勝直後、16時間のフライトでギリシャ到着。トリカラで自己新記録8.44mを跳んだ直後で調子は最高だった。世界選手権決勝でもラメラが8.22m、ベッドフォードが8.30m跳び、ぼくが3位に転落したが負ける気がしなかった。女子走り幅跳で優勝したユニス・バーバーの最終跳躍で劇的な優勝した瞬間のように、プレッシャーの状況になるほどぼくの本領が発揮できるのさ。結局、最後の跳躍で8.32mを飛んで優勝したが、順当だったと思うよ。

―アテネ五輪2週間前、リンツで8.60mの自己最高記録、歴代10位のジャンプも1回目の跳躍から跳び出したもの。2回目をファオル、残り4回目をパスした。五輪もほぼ世界選手権前と似たようなケースで、1回目の跳躍が優勝記録。2回以降連続してファオル、6回目が8,35mだった。
DP―04年はアテネに勝つために集中した。試合数を少なく、練習を完璧に消化したので、記録が出ることは分かっていた。欧州遠征最初の一発が自己最高記録だった。あとは記録を意識して固くなり、悪影響で記録は伸びなかった。

―アテネの決勝でも余裕があった。「come on get me! 」と言ってモフィットを刺激したらしいが・・・その効果は?
DP―あったと思うよ。かれも自己新記録をだして2位になったんだから(笑う)

―1発目が良かったが助走が不安定で・・・足が合わなかった?
DP―最初にイイ記録を出すと、次から力んで跳べなかった。アテネでは世界記録を破れると思ったし、破りたかった。3回目のジャンプはファオルしたがかなり飛んでいた。ポールの見解は、助走のスピードは問題ないが、スピードを流れるように踏み切りに使っていないと言う。踏み切りの瞬間、利き足でスピードをブロック、ブレーキをかけているらしい。問題は着地。とにかくぼくのは下手らしいね。(笑う)

―アテネ五輪優勝凱旋帰国の歓迎会は?
DP一子供のころからの五輪優勝の夢がかなったことは最高さ。ジョ―ジア州出身者のアテネ五輪優勝者はぼくだけかも?アテネから帰国後、9月29日、アトランタ市のフットボール大会会場で5。5万人の観衆の前で優勝を称えられた。また、ダカ トゥー市内をオープンカーで歓迎パレードがあった。それは素晴らしい感激に値するものだが、アメリカでは五輪、世界選手権で金メダルを獲得して帰国しても、政府、州、協会からビタ一文も出ない。2位じゃあ駄目なんだよ。このグラウンドで練習する砲丸投げのアダムス・アダムス、110mhのT・トランメルらが2位だが・・・人は名前を覚えてくれない。勝たなければ意味がないんだよ。

―99年PBが8.18mそれから毎年8.21,13(故障)、38,44,60mと記録を伸ばしてきた。今年の目標は?
DP―世界選手権2連勝が最も重要なターゲットだが、調子がよければいつでも自己記録更新、世界記録への挑戦を目指したい。走り幅跳で史上初の9m、100mで9秒90を達成したい。これらの数字は不可能ではない。そのためには8.50mをコンスタントに跳べることが条件になろう。マイク・パウエルは世界記録保持者だが、ぼくはかれが果たせなかった五輪優勝メダルを獲得している。そして、史上初の9mを越えたい。

―あなたのライバルは?
DP―最近、毎年新しいライバルが表れるような気がする。少なくとも、どんなチャレンジを受けようがそれに応えるだけの準備が必要だ。

―あなたの趣味は料理だと聴いたが、なにが得意ですか。
DP―母親から習ったもので、彼女の手料理は最高さ!肉を使った料理が得意だよ(笑う)

―今季最初の屋外の試合予定は?
DP―できれば大阪GPなど2戦を日本で予定している。

ドゥワイトは未完成の大器、世界新記録の可能性がある

ポール・ドイル(32歳)は、名門マサチューセッツ工科大運動科学部卒の元10種目選手。96年アトランタに移り、エモリー大学コーチの傍ら、00年シドニー五輪は12ヶ国の陸上選手をコーチした。中にパオリン・デイヴィス(バハマ、200m2位)がいる。現在かれの指導下に、アイルランド選手2人を含む9選手がいる。コーチはドゥワイト・フィリップスをこう見る。
「ドゥワイトは、走り幅跳だけではなくいろんな種目で大成する天性の身体能力の持ち主だ。肉体的なパワー、バネは信じられないほどある。知的で、大変な負けず嫌いの性格だ。集中力も素晴らしい。身体で動作を覚えるのが早い。これは大切なことで、技術習得が早いことだ。ドゥワイトは、技術的な改良が必要だ。走り幅跳に最も大切なスピードの持ち主だが、踏み切りの利き足が踏み切り板でスピードを殺している。要するに、スピードの移行が踏み切りでスムースにできない。そのため踏み切りのタイミング、角度にまで影響がでる。最悪なのは着陸だろう。ディプで両手を爪先まで持ってくるが、そこからさらに両手を背後まで振りながら、同時に両足を前に突き出し着陸することができない。かれは腹筋が非常に弱いため両脚を曳きつけられない。これが訂正されれば、来季世界記録に近い記録が出る。また、ドゥワイトは100mレース出場を考えている。本格的なスプリント練習が必要だが、かれの素質なら9秒台は難しいことではない。」  (月刊陸上競技社誌05年2月号掲載)

(望月次朗)

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