1月19日、取材なしのモザイク記事氾濫
インターネットなどで、世界中の情報が瞬時に手に入る時代。PC使い手は、あたかも自分で取材したかのように記事を書くことだって可能だ。これを英語でarmchair journalist と言う。意味は読んで字のごとく。モザイク(拾い集め)情報で記事を繕っても、実際、自分で現場取材を行ったものとは、おのずから違ってくるのが当然だ。しかし、最近はそんなことを構っていられない事情もある。
IAAF公式サイトで世界陸上競技界、トップ選手の動向がフォローできる。
サッカーならFIFAサイト,UEFAサイトには日本語もある。これは経済力を慮ってのことで、実力で尊敬されているのではない。世界のトップ選手の活躍は掴めるが、いかんせんこれらの情報も新聞用か、さわりだけで終わっている。専門サイトだが、表面的で専門誌にはとても物足りないものが多い。
最近はあるアメリカ陸上選手のインタビューでさえ、マネージャーは日本人メディアにはストレートに取材費を要求してくる。
アテネ五輪男子100m優勝のガタリンのマネージャーは、元110mh世界記録保持者のロナルド・ネヘメイアだ。かれにガタリン、クロフォードの取材を申し込むと、驚くほど早い丁重なeメールがきた。幾らとは具体的には言ってこなかったが、やんわりと「見返りはなんでしょう?」と言ってきた。そこで「専門誌の取材ゆえ、ガタリン選手の好意に期待します」と、返信したら完全に無視された。
日本メディアが金銭取材を初めて久しい。世界中でサッカー選手取材を一変したのは、多分「ナンバー」だろう。このようなことは今では不可能だが、一昔前、ぼくはマラドーナ、プラティニ、カレッカ、フリットらを気軽に取材できた経験がある。
サッカーブームが日本で起き、同時にカズがジェノバでプレーを始めてから、海外サッカー取材に火がついた。たちまち、わんさと日本人取材陣が海外に飛び、“通信員と呼ばれるオネ−さんたちが記者席を占領し始めた。サッカー取材経験がなくとも、言葉のできる現地滞在の女性がにわかジャーナリストに仕立て上げられ、取材競争が一層激化した。
取材がエスカレートしてくると、現地のコーディネーターやコネを使い、金に物を言わせたサッカー選手インタビューの流行が始まった。しばらくすると、どこもかしこも同じような企画だ。おまけにどこの雑誌も直ぐに選手インタビュー記事が氾濫、もの珍しさは失せてしまった。このころから始まり、現在も大物サッカー戦選手のインタビュー記事など、現地コーディネーターを立てて、大金を払って取材したものと思って間違いない。
こうなるとありがたみも、面白みも、新鮮さも失い雑誌社に金が掛かるだけでメリットはない。
友人のガゼット・デル・スポルト紙ピエルアンジェロはこう言う。「われわれは取材に絶対、金を払わない。これはジャーナリストの最も基本的な信条だ!」
このおいしい話はたちまち選手間に野火のごとく広まった。今じゃあ、ACミラン、ユーベ所属選手のインタビュー料金は最低1000ユーロを要求する。顔写真は撮れるがちょっとでもポーズを希望すると、別料金が派生するのだ。
選手と現地コーディネート会社がいい値を要求する。これは日本取材陣が、足元を見られていると言うまでもない。自業自得だろう。
しかし、こんな裏状況で仕事を長く続けることは難しい。インタビュー記事がお得意なスポーツ紙もすでに出費が大きな取材に堪えられなくなってきた。
インターネットで、言葉が出来さえすれば、家にいて世界中から情報を収集できる時代だ。よほど筆が立つジャーナリストか特別な切り口ができなければ、読むほうの食指が動かない。インパクトもなく、価値が薄くなっている。
今回は異色の日系5世ハワイアン。それも日本選手が最も不得手な10種目競技選手、ブライアン・ツモル・クレイのホノルル取材記だ。
スト決行のパリを後にして、ハワイへ発つ
この日、パリは鉄道、郵便局などの、かなり広範囲のスト突入だった。
定時に飛び立った。乗客は少なく空席が目立つのは助かった。
8時間後、ニューヨーク空港に到着。外は雪、マイナス8度とか。移民局は簡単に通過したが、乗り換え時間が30分しかないのに税関で捕まった。どうやら日本人一人旅で極端に荷物が少なく、フランスからハワイへ行くことが引っ掛かったらしい。税関の警察が荷物をチェック、問題なく通過する。乗り換えは到着ロビーが階上で簡単だったので、乗降口まで歩いて5分。フライトは30分遅れだった。
出発が遅れること1時間。乗客は少なく、空席が目立つ。フライト時間はホノルルまで10時間5分とか。ここでも隣席が開いていた。
国内線は急激にサービスの質が落ちる。ソフトドリンク、お茶、コ―ヒー以外はは総て金を取られるし、ヴィデオを見るのにイヤホーン代金が5ドル。石油価格昂揚、テロ防止で金が掛かるとか、せちがなくなったものだ。
安ホテルに予約を入れておいたが、ぼくの予約がない。受付の人はこんな問題に慣れたもの。数箇所のホテルに連絡、たちまちに問題を解決してくれた。ただし、ホテル料金が倍以上になったのは痛い。
1月20日、 ブライアンは客寄せパンダ、日本選手なら到底できない我慢強さ
寝た時間は数時間。時差で7時ごろ目が覚めた。ホテルにはレストランはない。歩いて5分の浜へ散歩。夜の遅い観光地では、朝が早い観光客以外はまだ寝ている。一人のお婆さんが長い竹箒のようなもので路地を掃いていた。その手付き、掃き方が日本人そのものだ。写真を撮ったら、おばあさんがすぐに気づき、怪訝な表情を見せた。
日本、韓国語もあちらこちらに見える。こちとらも初めてのハワイの“おのぼりさん”って言う感じで散策。昨夜、なにも食べないで寝たので空腹だ。レストランのカウンターで巨大な、卵3個入りのオムレツを食べる。これに殆ど味がないので、無理してケチャップとタパスコを振り掛け味付けした。なにも入れない紅茶はただの黒い色をした“熱湯”だ。
ハワイ・コンヴェンション・センターは、巨大なガラス張りの建物だ。1階は駐車場。長いエスカレーターで2階にあがる。会場は数千人の人でごった返していたが、受付でブライアン・クレイのことを聞くと、たちまちに案内してくれた。
クレイが交通渋滞で30分遅れて会場に姿を表す。競技場で見るより遥かに小柄だ。ハワイの人は小柄な人が多いが、その中に入って縦も横も殆ど目だないサイズだ。
目の前の男が10種目競技で史上5位の記録を打ち立てた選手とは想像できない。あのスピード、バネ、パワーは、一体どこかに隠されているのだろうか?身体つきから、表情まで日本国内にどこにでもいそうな、典型的な日本人の若者の顔だと思う。
ハワイ出身の陸上競技選手が五輪メダルを獲得するのは史上初めて。五輪中連日一週間、ハワイの日刊紙は1面を、郷土の英雄の記事で埋め尽くしたという。
次から次へとブライアンが嫌な顔をすることもなく、よくもこれだけの人がやってくると思うほどの人と写真を撮り、印刷した写真にサインし、握手して終わる。ブライアンは客寄せ“パンダ”だ。
ブライアンの拘束時間は10:30〜14時まで同じことの繰り返しが延々と、サンドイッチの昼飯を食べながら昼休みもなく継続された。これが2日間と続く。ブライアンの拘束時間は10:30〜14時まで同じことの繰り返しが延々と、サンドイッチの昼飯を食べながら昼休みもなく継続された。これが2日間と続く。
頑固一徹な祖父は古典的な日本のしつけで孫を教育した
ブライアンの車でハワイ―ヒロ大学へ行く。構内の競技場で軽いアップ。同時に、ここで待ち合わせた日系カメラマン、編集の女性のインタビューを受けた。母親、ミッシェルもやってきた。
練習終了後、一端ホテルに帰り、母親、かれの祖父母と一緒の夕食に招待された。
ブライアンは祖父母を「ジジ」「ババ」と親しみを込めて呼ぶ。祖父石井積(つもる、81歳)の祖父は広島県出身の3世。明治気質を持つ元進駐軍陸軍情報局所属。きれいな日本語が非常に達者でかくしゃくたるもの。奥さんの久仁子は沼津生まれ71歳。
祖父母は孫の応援にアテネに飛んだ。相当な強行軍を押して、2日間、孫の一挙一動を総てあの暑さの中で見たと言う。1500mのゴール後、ブライアンの2位が決定。ウイニングランが開始された。ブライアンが第一コーナーに差し掛かった時、1階の高い席から慌てて下のほうに飛んだので、あわや溝に落ちそうになったと。孫を誇らしげに話してくれた。
ブライアンの母親はミッシェル・美雪(綺麗な雪に因んでつけたとか)は札幌生まれ。ブライアンも日本名がある。祖父の名前を取りブライアン・ツモル(積)・クレイ。かれの弟はグレッグ・キヨシ(清)・クレイ同じ大学2年生。走り高跳をしているが、かれは弁護士志望のための法学部の学生で走り高跳は遊びだという。
1月21日、7月に父親になる。新しい刺激が面白い
ブライアンが早朝の撮影に遅れた。かれの義理の父親マイクと一緒に車で迎えにきてくれたが、撮影する時間もなくそのままコンヴェンションに向かう。車が渋滞、一方通行などで、歩くと同じぐらいの時間が掛かった。
ブライアンはかれを「父親」と呼ぶ。かれの血を分けた父親も生存。父親の家族とも親しく接触があるらしい。この点、日本で両親が離婚すると、おおよそ感情的な憎しみ合うケースが多い。離婚問題で一方だけを責めるのは片手落ちだ。
ハンマー投げの室伏家族に、かれの母親について話すことも書くことも、決して触れてならない暗黙のタブーがある。この業界で知らないのはモグリだ。室伏広治がここまで成長した影には、父親の存在、影響力は計り知れない。かれは機会あるごとに感謝の気持を表している。
しかし、ルーマニア人の母親については完全に無視。父親だけが息子の成功の玉の輿に乗って、母親無視を洗脳してきたならおかしな話だ。広治選手の日本離れした身体は、元槍投げ選手だった母親からも授かった「混血」の利点を無視できない事実があるからだ。また、だれもが知っている事実なのに、母親無視はむしろ不自然だというのは、日本では自然なのかもしれないが・・・。
現円盤投げ日本記録60.22mは、川崎選手が79年に記録した。父親はオーストラリア人だ。かれの2m近い巨体も「混血」の賜物だ。投擲種目に、生まれ持った身体能力が大きく左右されるのは言うまでもない。
室伏だけではない。好きで一緒になった夫婦が、別れた時点で憎悪だけが残るケース、当人たちは真剣そのものだろうが、無駄な過去抹消の努力をする悪あがきする輩が以外に多いのだ。
現日本国総理大臣、小泉首相も別れた元妻、血を分けた子供たちの存在すら完璧に黙認している。できることなら元妻、家族ともども、総てこの世から抹消したいと思っているだろう。いつか垣間見たTVで、子ども達からも首相は三行半を突きつけられたツマラナイ男だ。
故司馬遼太郎は、独特の歴史観で多くの歴史小説を残した作家だが、自分の歴史をひた隠しにした男。別れた妻に結婚時代の過去を一切公表することを拒否、弁護士を使って一筆入れたとか。
人の過去を書いて著名な作家が、自分の過去は金で消す努力をしたツマラナイ男だ。事実そのものを安易に隠し通せると考えた貧相な想像力しかなかった。
ブライアンは、昨日と全く同じパターンの仕事。嫌な顔もせず、丁重に一人一人握手、同じポーズ、表情でカメラに向く。
2時に仕事が終わると、マイクが車で迎えにきた。ブライアンは4時のフライトでLAに戻る。残された時間は少ないが、飛行場に行く手前の浜で、ワイキキビーチ、ダイアモンドヘッドをバックに数カット撮影を無事終了した。
車で一緒に空港まで、再会を約束して分かれる。分厚い聖書を抱えてドア―の向こうに消えた。
ワイキキビーチで、ハワイアン出身の1912〜32年、4回の五輪で優勝3回、2位2回、3位4回を獲得したDuke Paoa Kahanamokuの銅像を撮影。また、サーフィンを世界に広めた「Father of International」と呼ばれる。
ブライアンは、カハナモク以来のハワイ出身の偉大なスポーツマンと尊敬されている。
東海岸は100年に一度の大雪。ホノルルからは想像できない。ボストン空港は閉鎖された。NYは運行されているが、どこまで平常に運行されたかわからない。
この日、取材は完璧に終了した。