劉翔(22歳)は、アテネ五輪110mHで12秒91の世界タイ記録で優勝。中国男子陸上競技に初の金メダルをもたらした。中国人がアメリカ独占種目の110mHの壁を打ち破り、“劉翔神話”が一人で歩き出した。その瞬間からかれの人生は急変した。一夜にしてスーパーアイドル、億万長者になったニューリッチマン。国内ではボディガードなしで自由に外出できない。車を持っているが、自分で運転すれば交通渋滞を起こす。スポーツ学校寄宿舎から出ることは、試合以外めったにない。出たくても、出れないのだ。「全中運動大会」と呼ばれる大会中、ファンが押し寄せたため、滞在先のホテルを数回変えることを余儀なくされた。かれの出場した110mH予選、決勝、4x100mリレー前後だけは、それまで関係者だけの数千人から、7万人スタジアムに2万人ぐらい入った。劉翔がスクリーンいっぱいに映し出された瞬間、それまで静かな観客席から女性の金切り声が沸いた。スタート前の一挙一動にどよめく。上半身裸になって着替えるとき、一段と高いボリューム、テンションの奇声が上がった。ロックコンサート並みのノリだ。劉翔はセックスシンボルだ。かれの雄姿を撮ろうとするカメラマンの数も物凄い。観客席に五輪100m決勝並みの特別スタンドに群がっている。フィールド内にも30人のカメラマンが緊張して待機した。
観客からの奇声で、スタートやり直し。劉翔はこのプレッシャーの中でも、13秒10の好記録で他を圧倒した。ゴール直後、劉翔の前にパッと飛び出して一番乗り。数枚撮った瞬間、左右から駆け寄ったボディガードに突き飛ばされ、押されて、芋を洗うような大混雑。劉翔は引っ張られるようにしてフィールドを後にした。中国の観客は現金なもの。劉翔の姿が視界から消えると、観客は潮が引くように帰ってしまった。しかし、その静まり返ったスタンドの下では、全国から集まったその数300人の取材攻撃がすざましい。TVカメラ、レポーターらの目が血走っている。押し合いへし合い、大変な騒ぎ。劉翔はボディガードに守られて、駆け足で会見場に現れた。
記者会見が始まると、矢継ぎ早に延々と質問が始まる。劉翔と孫海平コーチは、慣れているのか淡々として応答。ところが1時間経過しても終わらないのか、終わらせないのか。業を煮やした主催者側が、強引に劉翔と孫海平コーチをボディガードに囲ませて逃げ出した。かれらの背に、取材者の罵声が飛んだ。訊くと、「インタビュー時間が短すぎる!」と、残念そうに地元記者が答えた。
こんな現象を目撃したのは初めてだ。あえて劉翔のスーパーアイドル的な存在を想像比較すると、“アトラスのライオン”イチャム・エルグルージュ(モロッコ)、“皇帝”ハイレ・ゲブレセラシエ(エチオピア)、“アステカの星”アナ・ゲバラ(メキシコ)、“エクアドルの英雄”ジェファソン・ペレス(エクアドル)らの存在と匹敵するだろう。いや、それ以上かもしれない。
余暇はカラオケ、ビリヤードで過ごすのが好き
南京では南仏を思わせる大きなプラタナスの街路樹がきれいだ。指定された時間にあるホテルに到着すると、黒服の屈強な男たちと数人の警察官が無愛想に出迎え、3階に案内にしてくれた。陸上競技選手と話すのに、こんな風景は見たこともない。そうでもしないと、地元のTV局、記者が躍起になって劉翔の所在を嗅ぎ回っているとのことだ。突入阻止体制を敷いている。数日後、南京から上海まで車で3時間半。ホテルの15階から眺望する上海は、ドス黒いスモッグで視界を無残にも遮断される。劉翔と孫海平コーチがスポーツ学校内など案内してくれた。この記事は数回のインタビューをまとめたもの。中国陸連広報の于文亭さんが、劉翔と孫海平コーチの言葉を英語に通訳してくれた。
−国内レースは大変な騒ぎですね
劉翔−(笑う)国内レースは国外レースよりプレッシャーがきつい!勝って当たり前。負けたりしたらとんでもないことになる。外国でのレースはまったく別もの。リラックスでき、レースに集中、しかもレースをエンジョイできます。
−コーチはゴール前で待機していたが、レース前から取材攻勢を掛けられていましたね。
孫海平−一時より過激な取材攻勢は下火になりましたが・・・(笑う)これだけは慣れることがありませんね。
−取材攻勢も過激ですね。
劉翔−陸上競技のためには、できるだけ時間を割いて取材を受けたいのですが、レースの前後から、たくさんの人から取材要望を受けると、ぼく一人ですべての取材陣に満足できるような返答はできません。物理的に不可能です。競技者は練習に集中、ベストのパーフォーマンスをするだけが仕事、ほかのことは関係ないはずです。現状では、取材要望すべてを受け入れると、練習時間、勉強、プライベートな時間、すべてが犠牲になります。そんなことを記者会見でも言っているのですが、誰も聞いてくれません。
孫海平−私たちスポーツ学校は上海市の西側の上海運動基地にあります。このような施設は2箇所同じようなものがあります。20年ぐらい前に建設されたとき、周囲は畑でしたが今は当時の面影はまったくありません。わたしも(妻と大学生の娘)ほかのコーチの家族もスポーツ学校の中に選手と一緒に住んでいます。子供たちは両親と離れて生活するのですから、家庭的な雰囲気が必要です。
−一般教育も同じところで受けるのですか?専攻は?
劉翔−そうです。これまで法学を終えて、現在はスポーツマネージメントを勉強中です。
−そもそもスポーツとのかかわりは?
劉翔−バルセロナ五輪で中国卓球選手の鄭並萍が大活躍をTVで見た感動、あこがれましたね。格好よかった!
−選手の余暇の過ごし方は?
劉翔−寄宿舎の中には、カラオケ、コンピュータゲーム、ビリヤード、卓球などの娯楽設備は完備されています。劉翔は数台のコンピューターを持っているし、ステレオセット、TVなど、現代の若者が欲しいようなものは総て揃っている。自由な時間は外出もできる。オフシーズンは3週間。好きなところに行ける。
−好きな余暇の遊びは?
劉翔−カラオケやビリヤードかな。友達と歌うときはリラックスできます。好きな歌は中国のものですが、いろんなジャンルの歌も好きです。
孫海平−劉翔はビリヤード、カラオケも巧く、プロ並みですよ(笑う)
劉翔−(手を振りながら)とんでもない!
−なぜ、劉翔はいまだに学校の寄宿舎生活ですか?
孫海平−それは中国五輪委員会の規則に従ってのこと。劉翔は学校外で自立することも難しくはないでしょうが、中国代表選手はスポーツ学校に寄宿しなければならないという規則があります。ここを出ることは自由ですが、代表選手の資格が自動的に抹消されます。
−五輪出場資格も失いますか?
孫海平−それは規則ですから、当然でしょう。五輪選手選考の対象になりません。
−スポーツ学校の敷地の外に出れない。
劉翔−まあ、ここは収容所ではありませんから、そんなに厳格ではありません。あんまり外に出る必要もありませんが・・・、学校内の敷地は平和で自由があります。この生活が気に入っているので、それほど皆さんが心配するほど窮屈な日常ではありません。外出しても、ぼくは中国国内では身長(187cm)が平均より高いので、逃げるところはありません。(笑う)マスク、サングラスを掛けて、帽子を深く被っても、正体がばれることはありますし、第一、そんな格好してまで外出しようとは思いません。
−規則正しい生活できますね。
劉翔−普通、競技者キャリアは30歳前後で終わります。最高のパーフォーマンスのためには、常に日常の生活、身体のケアが大切です。
−外出はボディガードが必要でしょう?
劉翔−それは時と場合によります。ぼく自身はボディガードが必要ないと思っても、状況によって必要なときもあります。例えば、サインや一緒に写真に納まることを拒否すれば、罵詈雑言をあびせられ、トラブルに巻き込まれることもあります。これはぼくの真意でなくとも、多くの人は理解してくれません。そうでもなければ、事態の収拾がつきません。
孫海平−あったほうが事故防止にはなるね。
−車を持っていますか?
劉翔−持っています。車は好きですが、上海の交通状態は大変で、事故でも起きたら大変です。そんなに乗り回すチャンスもありません。
孫海平−劉翔は中国の北京五輪陸上競技の最大の星。事故が多いですから、北京五輪までは好きな車も、なるべくなら避けたほうが良い。強制はしていませんが・・・、その点彼はよく理解しています。
ぼくの人生が急変した奇跡の五輪優勝
−コーチの略歴を教えてください。
孫海平−元110mH選手でしたが、1973年14秒70で走った程度。それから110mH専門のコーチ。現在ナショナルコーチです。
−これまでに育てた選手は?
孫海平−これまで劉翔の前に活躍した選手では13秒25のアジア記録を作った李?、最近では劉翔の前に陳雁浩(ベスト記録13秒55)、現在、女子では100mhの馮云(12秒86)、400m黄瀟瀟(ヘルシンキ世界選手権5位)らが12名の選手がいます。しかし、現在は劉翔に付っきりで、ほかの選手をコーチする時間がない。
−コーチはどのようにして劉翔を発掘したのですか?
孫海平−1998年3月か4月ごろのある日、かれがまだ走り高跳びの選手のころで、練習の一環としてハードルを飛んでいるのを見て、“ピーン!”と、きました。天性のリズムを見たからです。そこでハードル転向を進めたのですが、かれがスポーツを本格的に始める時、これにまつわるいろんなエピソードがあります。劉翔は走り高跳びから始めています。最終的に197cmを跳びましたが、中国では体操界がよくやるのですが、身長成長率の可能性チェックを行ったのです。最近、姚明ですっかり世界的に有名になった身体適正テストですが、このテストの結果で正確な身体的な予測データーが弾き出される。劉翔の将来は、、身長不足で世界的な走り高跳び選手として成功は難しいとの結果が出た。ハードル選手としては身体的に理想的な適正ですね。ところが、その年の8、9月の数ヶ月間、劉翔が練習にこなくなってしまった。どうしたのかなと思い、かれの両親と話すと、中国では一人っ子政策のため長男は大事に扱われる。両親は劉翔の将来を考えて『スポーツより勉強が大切』で陸上競技を続けることを“ガン”として断られました。子供の両親の承諾がなければ、中国ではスポーツを継続できません。何度も話し合い、劉翔の両親は親類一同を集めた家族会議まで開いたが、やはり全員猛反対の結果が出ました。私も諦めていたころ、幸いにかれの父親、林学根(運転手)が家族全員の反対を押し切って独断的に『好きなら、思い切ってやってみろ!』と、承諾してくれました。父親の判断がなければ、アテネ五輪110mHの優勝は起こりえなかったでしょう。
−どのようにして劉翔の父親を納得させましたか?
孫海平−かれを手元に置いて預かる手前、ひとつは立派な人格者に育てること。ハードラーとして世界のトップ選手に育てることです。幸いに、かれの弛まぬ努力によって、私の予測を上回る短期間に、中国陸上選手の史上初の成果を次々と打ち立てています。今じゃあ、コーチ、選手の関係ではなく、友達同士です。
−16歳でハードルを本格的にはじめて、2年後、前回の全中大会で優勝していますが、やはり天才的な素質の持ち主ですか?
孫海平−前回の大会で陳雁浩を破り国内でナンバーワンになった。リズムは生まれ持ったものだと思います。スピ−ドは10秒30ぐらい。メンタルのバランス、頑強な身体など、非常にバランスの取れたアスリートだと思いますが、質素と努力の賜物です。
−南京でレース後、観客に向けて2連勝のサインを出していましたね。
劉翔−4年前、初めての大きな大会で優勝。世界的に活躍していた陳雁浩を破った特別な思い出のある大会です。
−世界のトップレベルに“ブレーク”したレースはどこですか?
劉翔−このレースは今でも鮮明に思い出します。02年7月2日、初の欧州遠征で出場したローザンヌGP。110mH Bレース13秒12のジュニア世界新記録を出したときです。Aレースには出場できなかったが、Bレースと言っても、アトランタ五輪2位のマーク・クレアー(アメリカ)、3位のフロリアン・シュワールトフ(ドイツ)らの選手と一緒だった。ぼくのアイドル、アレン・ジョンソンにレース後、サインを貰ったときは嬉しかった。
孫海平−01年のエドモントン世界選手権では準決勝で落ちているが、冬季練習でかなり力をつけてきた。そこでかれの実力テストに欧州遠征を計画した。あの時、Aレース出場選手は、アニー・ガルシア(キューバ)、アレン・ジョンソン(アメリカ)、コリン・ジャクソン(イギリス)、テレンセ・トランメル(アメリカ)、スタニスラフ・オリヤルス(リトアニア)らの世界のトップハードらーが一緒だった。世界ジュニア新記録は、もちろんことだが、劉翔が世界の強豪を目の前にして、素晴らしい刺激と体験をした。
−そこからアテネ五輪が見えてきた?
劉翔−国内にいては、国際レース、選手が皆目わからないし、高いレベルのレース経験が絶対に必要です。あの時は、1年後にはパリ世界選手権、さらにアテネ五輪が控えている。世界の強豪の走りを見ること。国際試合の経験を重ねることは非常に大切なことでした。78年から破られなかった世界ジュニア記録保持者も嬉しかったし、トップハードラーに“グ〜ン”と近づいたことを実感しました。
孫海平−03年、バーミンガム室内世界選手権で3位。あのメダル獲得で、さらに大きな自信を得て、パリ世界選手権で2位。ワンステップ高いハードラーに成長しました。あのころは練習するたびに成長するような勢いでしたね。負けたのはアレン・ジョンソンだけです。
−アテネ五輪で優勝すると思いましたか?
劉翔−とんでもない!優勝なんて、一瞬なりと考えたことはありません。もちろん、周囲の人たちが大きな期待を寄せていたのは肌で感じましたが、ただ、メダルが取れたら最高だ!ぐらいに考えていました。レース前、ただ失敗もなく最高のパーフォーマンスをすれば、結果はトップ3になる自信がありました。身体的に劣ると言われるアジア選手が110mHで優勝して世界タイ記録で走ると、世界でも予測した人は少ないでしょう。奇跡的なことです。
−五輪優勝で得たものと失ったものは何ですか?
劉翔−五輪優勝で得たものは、到底言葉で表現できないもの。精神、物質面でも想像もできないような素晴らしい経験をしてきました。失ったものは、得たものと比較すれば取るに足らないものです。自分を失わないように、北京五輪連勝に向けて高いモチベーションを維持して行きたいと思います。
−コマーシャル契約もドッと押し寄せた。
劉翔−確かにたくさんのオファーがありましたが、練習、勉強に支障が起きない程度の5,6社に絞り契約しています。
−出場、賞金、コマーシャル活動で得た収入は、全部個人の収入ですか?
劉翔−いや、それは中国ではありえないことです。われわれスポーツ選手は、ここまで来るのに総て政府からの援助で才能を伸ばすことができた。収入の一部を政府、コーチ、ぼくの場合は上海市とも分けるのは当然なことです。
孫海平−もちろん、劉翔が取り分は最も大きいのですが、中国のスポーツシステムは違います。
−人生が変わりましたか?
劉翔−そうですね。一夜にして変わりました。(笑う)変わったことに感謝していますが、後悔はしていません。(笑う)金メダルのインパクトは、もの凄い!NBAの姚明が帰国したとき逢って話しました。『これからが大変だぞ!』と言われましたが、かれはアメリカに行ってしまい、ぼくはかれのように行くところがない。
−でもかれはアメリカでプレーしているので、プレッシャーは別なもの?
劉翔−とかくかれも中国人でNBAは初めてのこと。そのプレッシャーは大変なもの!!ぼくもようやくかれの立場が理解できるようになりました。
−アテネ五輪後、いつごろから練習を再開したのか?
劉翔−冬季練習再開が、五輪後はいろんな行事参加で例年より遅かったので、11月の始まりです。05年シーズン開幕は、例年より調整がスローだった。
孫海平−もう少し早くから練習を再開したかったが、祝勝祝いのパーティーで時間が取れなかった。
−世界選手権の調子は、今ひとつだったと聞いたが・・・?
劉翔−アテネ五輪と比較すると、練習量、質とも落ちていたことは確かだが、あの状況で2位になったので悪い結果だとは思いません。世界選手権で優勝できなかったが、ぼくの今期は、どんな状況でも、スタートからゴールまで大きな失敗もなくコンスタントな記録を出せるようになった。これは非常に大事なことです。
孫海平−五輪優勝したのは大きな自信になったでしょう。かれの最大の武器は、技術、メンタルの安定性。スタートからゴールまで高い技術でミスの少ない安定した走りにあると思います。それが今期はさらに精度を増してきました。
−世界選手権で2位になって国内の反響は?
劉翔−良くも悪くも言われますからね。(笑う)国内レースでは、13秒30か40でも勝てますが、それでは国内メディアが許さない。少なくとも13秒06か07で走らないと・・・。だから13秒08で2位になったので、それほど非難を浴びなかった。
孫海平−なにをやっても賛否両方の批判が飛び交う(笑う)今年、義理で出たくない国内レースで14秒台で優勝したら、新聞で散々に叩かれましたよ。力を抜いていると言ってね。
−アレン・ジョンソンが『110mHは近年にない激戦だ』と言っていたが、あなたはどう思いますか?
劉翔−その通りだと思います。まだ、アレン・ジョンソン(アメリカ)は凄い選手だと尊敬しますし、かれに勝つのは容易ではない。ラジ・ドゥクレ(フランス)は、今年になって急激に自信をつけて記録を伸ばしてきた選手。波のある選手だが、かれのスピードは侮れない。ベテランのアーノルド、トランメルらのアメリカ勢も強い。常にベストの状態で走らないと、絶対に勝たしてくれない。
―中国短距離選手が、マイケル・ジョンソンのところで練習を始めた。外国に拠点を移して練習するような計画はありませんか?
劉翔−ここだけでも十分です。われわれがやってきたことに間違いがありません。アメリカのハードルは伝統的に、世界一の強豪国。あそこでは習うことがたくさんあるはず。でも、改めて外国に拠点を移す必要性がありません。レースだけはレベルが高いだけに、どこのレースに出場しても刺激があると思います。
孫海平−アメリカ、欧州には優れたハードラーがいます。かれらの考え方、知識、技術、練習法など、多くのことを習得したいのですが、言葉の壁で外国のコーチと接触はありません。
−昨年、パリに拠点を置いて調整予定だったが、急に取りやめて帰国した理由は?
孫海平−3週間で音を上げたのは、正直言って食事が悪かった。われわれにはあわなかった(笑う)
―パリなら、近くに中華街もありますが?
劉翔−そこにも行って見ましたが、どうもダメ!
孫海平−要するに中華料理といっても、あそこのものは本物じゃあありませんね!!(笑う)横浜の中華街の中華料理は本物です。あれ以外は中華料理は外国ではダメですね。
−技術的な完成度は?
孫海平−劉翔の技術は、この若さでかなり完成度の高いものになりました。私個人ではアレン・ジョンソン、コリン・ジャクソンらのハードリング技術が素晴らしいと思うが、身体能力、体つきの個人差があるのでかれらの技術をそのまま習得しようとは思っていません。劉翔の身長が189cmでジョンソンが182cmぐらいですが、重心の高さ、足の長さはほぼ同じでしょう。
−今、最も欲しいものは?
劉翔−五輪前のよう、自由な生活です。時には友達と食事に外出できることなど、ごく普通のスポーツ選手の生活に戻ることですね。
−次の課題は?
孫海平−かれは若いので、これまでそれほどウエイトトレーニングの経験がありません。冬季練習の課題は、上体強化を考えています。
−劉翔“神話”が一人で歩き出しています。
孫海平−われわれの身体的なコンプレックスを劉翔の活躍が吹き飛ばしてくれた。ハードルは足の長いスプリントの素質を要求される人種に有利な種目。アジア人には苦手の種目と言われてきました。その定説を見事に覆した劉翔の実績が、神話をなしていると思いますね。
劉翔−子供のころからTVでスプリントの優勝者は欧米人だったし、アジアの選手は良く行ってセミファイナルで消えます。しかし、ハードルは純然たるスプリントとは、細かな技術が伴うレースの違いがあります。
−北京五輪で勝たなければならない宿命。今から大変ですね。
劉翔−プレッシャーを恐れているわけではない。ひとつのモチベーションにもなります。ぼくは北京五輪が26歳のとき。競技者としても、最も力を発揮できるチャンスがあると期待していますが、北京五輪は確かに重要なレースですが、競技者人生の重要な大会のひとつと考えています。ぼくはベストを尽くすが、メダル獲得の約束はできないし、勝つこともわかりません。
−記録はどこまで伸びますか?
劉翔−多分、12秒50ぐらいは行けるでしょう。
(05年月刊陸上競技社12月号掲載)