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北京で五輪2連勝の準備、06年はGL800mでジャックポット狙い

アテネ五輪男子800m優勝者ユーリ・ボルザコフスキー(ロシア、25歳)は、モスクワ郊外の寒村クラフトの生まれ。ユーリの名前は、人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンにあやかる。現在、モスクワ郊外20kmにあるズコフスキー市在住。この町は、航空、水上力学の「父」と呼ばれる航空科学者、ニコライ・イェゴロヴィッチ・ズコフスキー(1847〜1921)の偉大な業績を称えて名付けた町。1904年、ここに世界最初のエアロダイナミック研究所を設立。おかげでこの町は、TsAGI(Central Aerohydro Dynamic Institute)と呼ばれる研究所と恒例の航空ショーで世界的に注目されている。

ボルザコフスキーは、10代でロシア中距離史上最強選手と言われ、男子800mでロシア初の五輪優勝をアテネで成し遂げた。(注:ソ連時代にも、1972年五輪800mでイェフゲニ・アルザノワの2位が唯一のメダル獲得だ)

ボルザコフスキーがアテネから凱旋帰国した時、市長をはじめ市民3000人が空港に熱狂的に出迎えた。かれのため、昨秋スタジアムが新装され、観客席の下に室内練習場も完備した。この日、外気はマイナス15度。20分間の雪上ジョギング、続いて室内練習後、近くのレストラントで取材に応じてくれた。

この取材は、アレクサンダ・ポルコモフスキー(33歳)が行った。7回ロシア選手権優勝、94年欧州選手権100m3位、世界選手権5回出場、シドニー五輪出場。60m6秒68,100m10秒12,200m20秒35の実績を持つ。98〜02年、イスラエルに移住。同国100m記録保持者。現ロシア陸連本部に勤務。

スポーツ学校で、間違えて始めた陸上競技

「スポーツに興味を持ち始めたのは、10歳ごろだった。学校が終わってから、近くのスポーツクラブに加入。最初のころはレスリング、サンボ、空手など、いろんなスポーツをやっていました。ある日、サッカーの練習かと思って参加したグループは、ウォーミングアップとゲームを混ぜた遊び感覚で楽しかった。そんな練習に2週間参加して、実はこれが陸上競技だったとわかったんです。(笑う)でも、面白かったのでそのまま続けました。スポーツエリート学校に入学。最初のころ、3000mとか5000mの長い距離を走っていたが、いつの間にか走る距離が短くなって、1500mから800mと中距離になったのです。やはり走ることは抜群に強かった。スプリントから中距離まで練習しました。モスクワ選手権では200mを走ったこともありますが、やはりコ−チが800mが最適と考えたのでしょう。15歳で800mが2分を切ったし、16歳で1分53秒69、17歳のシーズンで1分47秒71。身体能力がありましたね。今でも、400mレースに出場することがありますが、あくまで練習の一環で、スピードテストする時です。1998年、ぼくの中距離の素質を見つけ、忍耐強く指導してくれたヴァディム・ミロシュニチェンコ・コーチが、自動車事故でなくなった。でも、かれの奥さん、リュボフ・コーチのグループと一緒に引き続きコーチ。奥さんも子供を教えることがとてもうまかった。1998年、18歳のとき、欧州ジュニア選手権、世界ユースゲームズに優勝できたことも、奥さんのおかげです。01年から、現在のコーチ、ヴィタチェスラフ・エフスタトフと一緒です」

00年、史上最年少で史上最強選手、ロシア800m記録を塗り替える

10代でロシア記録更新4回。ロシア中距離の不動のエース。勢いを駆ってシドニー五輪初出場。予選を1位通過。準決勝で1分44秒33の自己新記録でアイサ・ジャビル・サイドーゲルニ(アルジェリア)についで2位。19歳の決勝進出者で最年少だった。決勝は45秒台に6人の激戦で1分45秒83で6位に終わった。

「98年ぐらいから、ある程度、奨学金のような形で陸上競技で打ち込めるようになったが、完全なプロのなったのはシドニー五輪の次の年かな?両親( 注:父親は工場勤務、母親エカテリナは工場勤務から道路清掃員、ユーリは長男、弟、妹の5人家族。ロシアの典型的労働者の住むコミュナルと呼ばれる“公共団地”。狭いアパートに数家族が詰め込む同居。台所、風呂場、トイレなど共同で使用する一種のスラムだ。)ともスポーツは得意のほうではない。ぼくはうちの家族では特殊なんだよ。19歳で1分44秒33の自己記録を更新、19歳で1分44秒33を記録。20歳でジュニア室内世界新記録を2度、ロシア新記録を4回更新した。00年、ドルトムンド開催の室内大会800mで1分44秒38を記録したことが、シドニー五輪出場できた大きな動機だった。あの記録で、アフリカ選手となんとかして戦える自信を持てました。シドニーは、初出場ながら、非常に重要な大きな経験と目標が十分達成できたと思う。あの経験がなければ、アテネで優勝することは難しかったと思う。ぼくはそれほど大きな国際レース経験がありません。五輪で総てのレースに全力、特に、準決勝でエネルギーを使い果たして疲労。メダル獲得を狙ったが、決勝では余力がなかった。また、決勝前日、市内に遊びに行って、道がわからなくなってしまい迷子!練習時間に遅れてコーチに、こっぴどく怒られました。ともかく、いろんな経験がアテネで役立ったことは確かです。」

自分でも驚いた42秒台の記録

「例えば、01年ブリュッセルGLのレースは、今もって1分42秒47の記録が信じられない。とてもそんなハイペースで走っているとは思っていなかった。ただ、あのころ無敵のアンドレ・ブッヒャー(スイス)に、良いところまで食い下がるがことができても、最後はいつも負けて悔しい思いをしていた。ブッヒャーのすぐ後方にポジションを取ったが、マイペースを崩さず。200mを26秒のイーブンペースが成功して、最後に抜いて初めて勝つことができた。ゴール直後、計時板を見て“アッ!”と驚きましたね。まさか42秒台とは!!無心で走るときは記録が出るものだ。ぼくの自己最高記録は、世界史上第6位の記録。もちろん自己記録を更新して、世界新記録に挑戦したい気持ちもあるが、世界記録を破ることを目的にして走りたくはない。世界新記録が出るときは自然にでてくると思う。練習とレースは、常に全力を尽くす努力をしているので、いつか、世界新記録が出るかもしれない。」

アテネ五輪の戦い

「01、02年、大きな大会に出場を止めたのでリラックスできた年。しかし、この年、コーチと話し合って、2年後のアテネ五輪準備を逆算して綿密に計画、準備を始めた年です。五輪優勝が至上的。それ以外はそれほど重要とは思っていません。結果的に、われわれの計画通りになったのですが、狂ったのは03年パリ世界選手権は2位だったこと。記録更新と優勝を狙ったが誤算を生んだ。原因は作戦の読み違いですね。作戦はレースによって、一緒に走る選手によっても毎回違ってくるものです。

アテネ五輪決勝出場選手の中で、際立って強い選手がいなかったが、5,6人が優勝するチャンスがあると読んでいました。コーチは、『サブ43秒で走れる調整だ!』といった。コーチがレース直前、われわれを落ち着かせてレースに集中させるのが巧妙です。

準決勝までの走りを見て、躊躇なくマークしなければならない選手は、優勝候補筆頭のウイルソン・キプケター(デンマーク)。その他にも、ウイルフレッド・ブンゲイ(ケニア)、ジャビル・サイドーゲラニ(アルジェリア)、ブラエニ・ムラウジ(南ア)らだった。ムラウジは“危険”なダークホース的散在だった。ところが決勝前、サブトラックでキプケターを見ていると、明らかにウォーミイングアップからなんとなく奇妙な様子でいつものかれではなかった。ぼくより遥かに大きなレース経験豊かなかれが集中力を欠いて、いつものかれらしくない行動は腑に落ちなかった。かれの最後の五輪チャンス、その心理的なプレッシャーに耐えられなかったのだろうか?心理的な不安定な状態ではなかったのでは?決勝は、300mを残してブンゲイ、キプケター、サイドーゲルニ、ムラウジらが一団となって熾烈なポジション争い。ぼくはかれらの背後から、前の集団の潰しあいを冷静に見ることができた。あの時、『最後の100mが勝負になる!』と判断、追うことを止めて、マイペースで最後に余力を蓄えたのが成功した。生涯最高のレースができたと思う」

レースは勝つことが最も重要

「ただ、勝負になると、選手は全員勝つことが第一で、大きな大会になるほど記録は二の次になるからです。勝つための作戦をしっかり持たないと勝てない。レース作戦は、競争相手、ぼくの調子によっても違います。例えば、レースが最初からスローペースで始まり、一緒に走る選手の特徴を知っているなら、ポジション取りは少なくとも10m後方にいて、フィニッシュのスピードを上げなければならない。この逆もあります。時には前半を50秒で入り、後半が54秒の選手もいますが、ぼくの場合は、おおよそ52秒ラップで走り、急激な上げ下げはしていません。レースは生き物。レースの流れを読んで、迷わずに自身を信じて作戦をそのつど訂正しなければなりません。ぼくは800mを“頭”を使って走る。パリ世界選手権でも負けたが、ヘルシンキ世界選手権前、調整は万全で勝てる自信があった。決勝は、残り180mを過ぎてから、接触事故で転倒一歩手前で立ち直ったが、少なくとも1秒の損失している。あの自己はぼくの責任ではない。中距離レースに起きる不可抗力、事故ですね。ぼくの作戦“頭”は間違っていなかった。ラシド・ラムジ(モロッコ)が800m決勝前に、すでに1500mで優勝。走るたびに自己記録を更新している絶好調だが、ぼくがスパートをかける直前の事故でバランスを崩した。あれがなければ絶対に勝てたと今でも思っています。優勝と2位では雲泥の差ですね。」

高地練習は中距離選手にとって不可欠だ

「トラックの上ではライヴァル同士だが、競争相手とは仲がよい。以前は、『アイツはどこのヤツだ?』と怪訝な顔をされたが、アテネ五輪後は向こうから声を掛けてくる。ぼくのライバルはケニア、南ア、エチオピアらのアフリカ選手ばかりで、欧州選手が伸びてこない。かれらの国そのものが伝統的に、世界の中、長距離選手を多く排出しいる国。ブッヒャーもスイスの高地で練習してきた。モスクワの近くに、高地練習できるところはない。われわれはアテネ五輪前、約4ヶ月間、キルギスタンの天山山脈の高地1600mで合宿練習を行った。ここで完璧に心拍器官の機能を向上させ、走り込みで基礎体力をつけた後、家に帰らないでモスクワ経由で、コーカサス山脈の低地でスピード練習で最後の調整を完了してアテネに飛びました。大きな大会の前は、必ず高地練習を張ってから、合宿期間の長短がありますが、高地+平地練習の組み合わせは変わりません。」

五輪金メダリストの代償は?

「アテネ五輪後、帰国のときは市長らはじめ、驚いたことにモスクワ地方の知事、3000人の市民が飛行場に出迎えてくれた。あれ以来、ぼくの生活スタイルが一新した。五輪金メダリストの日常生活は楽ではない。自分自身が変わらなくても、他人がぼくを見る目、接する態度が大きく変わってきた。どこに行っても、誰かがぼくの顔を知っている。常勝を期待されるプレッシャーは嫌なものですね。アテネ後、出場する総てのレースに勝つのが責任のようにまじめに考えて懸命に走って勝ち続けました。しかし、あのような状況が心身共に長続きすることは不可能です。今は少しはリラックスして考えるようになってきました。日常生活にいろんなことが起きる。モスクワに住居を提供されたが、道路は常に渋滞、空気も汚く住みにくい。この町から出る気は全くない。昨年9月、新しいスタジアムが完成、小さいが観客席の下に冬季の室内練習場が完成した。大きくないが、基礎練習はできる。走るときは、モスクワに週数回出る。公園も近くにあるし、クロカンコースも素晴らしい。市が中距離選手育成クラブを創立するプランです。将来は、このクラブで働くことができるかもしれない。結婚して5年目。二人の息子、ヤロスラフ(4歳)と数ヶ月前に生まれたレフ。年間10ヶ月は合宿や遠征で家を留守にして家族に会えない。国内レースの場合、なるべく家族と一緒にいる時間を作るため、家族同伴するときが多い。妻のイリナ、長男は4歳でトラックを3周できる。年齢にしては凄いでしょう!」

北京五輪の準備はすでに始まっている

「今年は室内世界選手権、欧州選手権があるが、ぼくはそれほど大切な大会とは考えていません。今年から北京五輪2連勝のため、すでに長いスパンで準備段階に入ります。今年の室内は例年通り、“ロシアの冬”と呼ばれる室内大会に出場する。この大会はレベルが高く、観客も熱狂的で素晴らしい雰囲気で行われる好きな大会のひとつですね。地元開催の室内世界選手権にも参加する予定です。毎年、コーチと一緒に新しい目標を掲げる。コーチが練習プログラム、レース予定など、年間スケジュールを組む。それにお互いに意見を交換して最終決定します。2年前、体躯大学を卒業。陸上競技の科学的な知識、コーチ、教師の資格を持っていますが、ぼくは練習を始めレースなども“フィーリング”、感覚を非常に大切にしています。身体に訊き、センスを研ぎ澄ませることは、科学だけで理解できないことがたくさんあるからです。また、コーチがレース出場プラン、エージェント、スポンサーなど、マネージメントも仕切ってくれるので、ぼくは練習に集中するだけです。広告撮影の場所、時間までも、かれが面倒を見てくれます。その年に世界選手権があれば、最も大きな目標になるが、01年世界選手権、02年欧州選手権大会では800m(400m準決勝)を欠場している。今年の最大目標は、欧州選手権もありますが、欧州選手権のレベルはそれほど高くありません。ゴールデンリ−グに全試合出場する予定です。ラムジらと競争したい。そこで得る経験が、なんらかの形で五輪連勝に役立つでしょう。」

週末はクラブで日曜の朝まで、プロディスクジョッキー

「ズコフスキー市は、なにかと飛行機に深く関している町。ぼくはMAKSと呼ばれる国際航空ショーは、まだ一度も見ていません。この時期はシーズン中なので、なかなか見る機会がないからです。スポーツがぼくの仕事になったが、それほど真剣でもないし、練習、レースなど、時にはゲーム感覚と受け止めています。スタートラインに立って『ゲーム開始!』と言った状況でしょう。説明が難しいが、ぼくの好きなスポーツはサッカー、テニスなどの球技です。テニスは得意ではないが、サッカーは練習の合間や、気分転換に練習の代わりにプレーします。気分転換は重要なこと。17歳ごろから将来を考えて「溶接工」になるために1年間コースを受けたが、それからはフィジカル文化と各種スポーツのエリート校入学、2年前にそこを卒業した。
「ズコフスキー市は、なにかと飛行機に深く関している町。ぼくはMAKSと呼ばれる国際航空ショーは、まだ一度も見ていません。この時期はシーズン中なので、なかなか見る機会がないからです。スポーツがぼくの仕事になったが、それほど真剣でもないし、練習、レースなど、時にはゲーム感覚と受け止めています。スタートラインに立って『ゲーム開始!』と言った状況でしょう。説明が難しいが、ぼくの好きなスポーツはサッカー、テニスなどの球技です。テニスは得意ではないが、サッカーは練習の合間や、気分転換に練習の代わりにプレーします。気分転換は重要なこと。17歳ごろから将来を考えて「溶接工」になるために1年間コースを受けたが、それからはフィジカル文化と各種スポーツのエリート校入学、2年前にそこを卒業した。

レース前、自作のサウンドでリラックス

「DJの世界は常に新しいサウンド、ミュージシャンに敏感でなければならない。ロシアのDJは、同じようなものを繰り返してプレーするので、どこかで魅力に欠けます。ぼくは幸いに外国遠征を利用して、世界中の新しい音楽、最新のミックス機材を探して購入するチャンスもあります。ロシアで有名なDJ、セルジェ・ピメノフ、キリロフらと一緒に演奏したことが何度もある。ミックスした音楽を録音して、多くの陸上選手が練習、レース前に音楽を聞いているが、ぼくは自作のオリジナルサウンドを聴いています。通常、ぼくのウォームアップは、音楽を聴きながら1時間半掛けます。1枚のCDか、5分間のトラックを10回連続で聞くことによって、準備が整ってきます。また、音楽によって、心理的な落ちつきができます。レース直前になって怖くなったり、ナーバスになることはありませんが、五輪、世界選手権数ヶ月前のほうが、レースを考えると怖くなってきます。」

「もうひとつの趣味は、遠征先の美しい風景を目にして、綺麗な風景写真に興味を持ち撮り始めました。安物を買うとすぐに飽きてくるので、日本製の高級カメラを購入しました。まだ、写真の習うことはたくさんある。今日は日本の陸上専門誌のインタビュー。日本の陸上競技ファンに、ぼくの紹介記事が掲載されることを大変に嬉しい。ぼくの車はホンダなど、以外にいろんな物が日本と関係がありますね。ぼくが7年前から好きになって飲んでいる緑茶は、多分、中国製かもしれないが、鮨も大好きです。」

コーチ談

「生まれ持った身体能力は素晴らしい。中距離走者に必要な総てを持っている稀なランナーだ。スプリントと長距離選手並みのエンデュランスの持ち主だ。いくらきつい練習を消化しても、回復力が非常に早い。練習への集中力、プロ意識、責任感が強い。800m走者として、ピークはまだ先にある。大成する総ての質素を備えている。まだ若いにので、レース出場をしっかり管理しなければ、素質全開するまでに身体共に燃え尽きてしまう。」

photo:Alex Porkhomovski
コーディネーター:望月次朗

(06年月刊陸上競技誌3月号掲載)

(望月次朗)

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