近年、カリブ海上のバハマ、トリニダードトバゴ、バルバドス、セントキッツらの小国選手らが世界陸上界で大活躍。その発端になった陸上競技名門国のジャマイカ、キューバの影響が大きいことは言うまでもない。90年代、個性豊かなキューバ選手が大活躍した。男子走り高跳びの現世界記録保持者のハビエル・ソトマイヨー、イバン・ペドロサ(走り幅跳び)、ヨエル・ガルシア(三段跳び)、ヨエルビ・クエサダ(三段跳び)、ロベルト・モヤ(円盤投げ),アニー・ガルシア(110mh)、女子アナ・キロット(800m)、マリザ・マルテン(円盤投げ)らが、一世を風靡したと言っても過言ではない。
ところが、シドニー五輪後から世代交代の兆しが急速に進んだ。アテネ五輪では男子優勝は一人もなく、女子槍投げ、砲丸投げで2個の金メダル獲得。かろうじてキューバの面目を保った。キューバは、世界に数少なくなった社会主義政策下で、陸上競技発展に力を注いでいるが、世代交代の選手育成にはどうしても時間がかかる。しかし、そこはキューバ、人材が豊富だ。ヘルシンキ世界選手権大会で金メダルの数こそ2個と少ないが、若手の成長が著しく、2位に4名、8位までの入賞者に4人が食い込んできた。
ヘルシンキ大会女子800mのズリア・カラタユード(26歳)女子槍投げ世界新記録で優勝したオスレディス・メネンディス(26歳)の2人を取材した。
取材者は地元Radio Havana Cubaの記者、Javier・Crabelo。IAAFサイトにカリビア、中南米の陸上事情を寄稿する元中距離選手。
苦節10年、世界選手権を制す
1996年、3人の女子中学生が、ハバナ市のペドロ・マレロの競技場で難関のキューバナショナル陸上チームテストを受けた。二人が振り落とされ、ズリア・イネス・カラタユード・トーレスだけが選考された。9年後、26歳になったハバナ出身の中距離選手は、05年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキで、肌寒い小雨の悪天候の夜、記念すべき世界タイトルを獲得した。
ズリアは西ハバナ市のブエナビスタ浜の側に生まれ、6人兄弟の最年少。看護婦として忙しい母親、ペトラナ・トーレは、ズリアがいつも日暮れまで遊んでいたことを覚えている。ズリアが12歳のとき、重症の喘息に掛かった。これが2005年、11月にも起こり数ヶ月練習を中断しなければならなかった。
ズリアがスポーツに興味を示した背景には、家族、親戚一同がスポーツ愛好者である影響が強い。特に、60〜70年代に柔道で輝かしい実績を残した叔父の影響が強かった。叔父がベネズエラのズリア州で優勝した記念に、彼女の名前を州名から命名している。もう一人の叔父、ホアン・アントニオ・トーレスは50年代のスプリンターだった。兄のホアン・マニュエル(29歳)は、陸上競技選手、姉のゾイラ・カリダード(30歳)は自転車選手だった。
ズリアは中学生のころから逸材を認められ、キューバ陸上競技エリート教育によって、第2の国民的な英雄アナ・キロットと言われ期待されたが、喘息と不運な怪我に見舞われ、一度は挫折しかけた。それでも競技を続け大器が開花した。800mナショナルコーチのファオスティーノ・ゴンザレスと共に話を訊いた。
−スポーツに興味を持ち出したのは?
ズリア−キュ−バは、中高校生は年間1ヶ月間田舎に行って労働しなければならない義務があります。1995年、中学生のころ、その義務を逃げるために陸上競技を始めたのです。この年に父親、ホセ・リカルド・カラタユードが亡くなりました。そのためにも、没頭できるスポーツが良かったのです。近くの競技場の最初の専門コーチはグレシア・ハミルトン。1970年中央アメリカ−カリビアゲームズでの砲丸投げ優勝者です。
−誰があなたの陸上競技の才能を発掘したのですか?
ズリア−ハミルトン・コーチです。陸上競技の練習を始めて少し立ってから、ある日の記録会で、コーチが薦めた800mで2分18秒07を記録したからです。それから直ぐに、レベルの高いマニュエル・ペルミュイ地方スポーツ学校に入学。この学校ではオランド・ゴンザレスコーチの指導を受けました。
−800mを始めた動機は?
ズリア−最初のころは短距離を選びました。ところがゴンザレス・コーチが2年間海外に派遣されたので、新しいネルソン・グティエレズ・コーチの指導を受け始め、短距離よりも400と800mの2種目のほうが最適だろうと結論に達したからです。1996年、私の記録は400mが56秒97, 800mが2分13秒80でした。1年後の1997年、それぞれの種目で55秒50,2分12秒07、手時計で200m25秒00と記録が順調に伸びました。この年の6月15日、わたしたちのアイドル、アナ・キロットと一緒のレースに出場。アナは国内最高記録1分57秒56で優勝、わたしは2分16秒28で6位だったことを覚えています。わたしはこのとき17歳だった。とんでもない実力の差だったわ。(笑う)これがアナとの最初で最後のレースになりましたね。1998年から、コーチいわ若いときにスプリントの力をつけることが重要なので、400mを集中的に練習。おかげで記録が52秒39を記録、1998年ジュニア世界選手権に出場。準決勝まで進みました。この結果、1998年9月にナショナルチームに参加することができました。
−そこでまた、コーチが変わった。
ズリア−そうですね。ファウスティノ・ヘルナンデズ・コーチは、400mのスペシャリストです。コーチは、わたしの素質は400mに適しているだろうが、800mレースのほうが好成績を残すだろうと説得しました。世界の400mには、強い選手が大勢いるからと言っていました。また、400mを走るとき、わたしのカーブを走る技術的な問題、特に、腕ふりが悪く、身体のバランスが悪い点などを訂正されました。
−ズリアの特徴は?
コーチ−ズリアは天才的なスピードの持ち主です。2001年、400mで50秒87を記録。400mでも世界のトップ選手になる素質を持っていると思う。でも、このスピ−どの持ち主が800mに転向、スピードに耐久力を備えることができれば、アナ・キロットの後継者になる質素は十分にある。そこでここ数年間、耐久力の練習にも重点を置いてきた結果です。
―シドニー五輪800mで6位、アテネで8位。五輪で得た経験は?
ズリア−シドニー五輪出場は、素晴らしい思い出があります。決勝進出を果たして1分58秒66の自己新記録を樹立しました。まだ、21歳になる前でした。あの大会は一生忘れないでしょう。それとは逆に、アテネは故障上がりで十分な練習もできず、精神的な不安を抱えての出場でした。決勝進出は運が良かった。あれ以上は、実際に望むべきの状態ではありませんでしたが、05年世界選手権に向けてのなにをするべきか、どのようにするべきか、かけがえのない体験をしました。これらの五輪、世界選手権での経験が、次回北京五輪で最終的に表彰台にあがることに結びつくと思います。
−ヘルシンキでどのようにしてロシアのライバルに勝てたのか?
ズリア−ライバルを誰とか特定は難しいと思います。わたしと同じように、全員が2本の足、両手があります。決勝進出したランナー全員が優勝の可能性があります。同じレベルでなければ勝てるチャンスはありません。しかし、わたしはヘルシンキ前、欧州GP転戦の経験、結果から世界のトップ3の実力と自信を確信してきました。調子は良く、メダル獲得に自信満々でした。
コーチ−この種目はロシア選手独占状態。ズリアは欧州選手以外の数少ない一人だ。ロシア3選手がヘルシンキ決勝進出。05年、ロシアでは7選手がサブ2分、8選手が2分1秒台、34選手が2分4秒台に控えている。04年の五輪の年は、9選手がサブ2分を記録している中距離王国です。
−ヘルシンキ決勝レース前、どのような作戦を取ったのか?
ズリア−わたしにとって、天候は最悪。寒くて、スローペースになることは予想ができました。勝つためには、ポジションを誤らないこと。最初にだれかが仕掛けるのを待つことでした。GPでロシア選手と走った経験があるので、怖いとは思わなかったし、それよりも今まで大きな選手権で勝ったことがなかったので、タイトル、メダル獲得に執念が強くハングリー精神が強かった
コーチ−ヘルシンキでは準決勝が難関だったと予想した。が、ズリアは準決勝で1分57秒97の最高タイムで通過した。決勝はタクティカルレースになれば、ズリアを脅かす選手はいないだろうと思った。わたしは1か2レーンを走り、外に押し出されないようにアドバイスした。実力はトップ、焦ることはなにもなかった。ゴールが近づくと共に、ライバルが勝つチャンスが少なくなってくるので、心配する要素は何もなかった。レースは予想通りのスローペース展開。ロシア選手はチーム作戦をとらず、誰も悪天候の中でリスクを負って前に出ない。200mを残して、タティアナ・アンドリアノファがでたが、ズリアはまだ前に出なかったホームストレッチに入る手前、ズリアがスパート、一挙にトップに立ちそのままゴールインした。
−高地練習の経験はありますか?
コーチ−われわれは1999年メキシコ、2000年コロンビア、2003年ガテマラで高地練習の経験がありますが、一定の成果はあるものの、練習環境はキューバで行うことがベスト。昨年、高地練習は全く行っていないが、ズリアは世界選手権を獲得した。
−昨年、世界選手権に向かって特別な練習を消化したのか?
コーチ−ズリアは、珍しく故障もなく練習スケジュールを消化した。これがコンスタントに力を発揮できた最大の要因です。次に、最後の250mスプリント力は誰にも負けないスピードを持っている。そこで、05年の特別な練習は、長い距離から入る1500mの練習を取り入れてエンデュランス、耐久力をつけてきました。これらの総てが順調に消化できたのが勝因でしょう。
−故障はどのように克服してきたのか?
ズリア−左足の向こう脛の故障は、最初2003年の練習中でした。練習を休んで痛みが止まったと思って練習を再開した途端、今度は右足が痛くなりました。コーチ、外科医にも手術は避けるように言われたので、休養しながら手術なしの治療だけ。回復してから、プールを使用して体力回復に専念。02年マドリッドで開催されたワ−ルドカップ出場から、故障後、最初の競技は04年キューバ選手権400mに出場、52秒07を記録しました。数えて約19ヶ月後でしたね。
−世界選手権で優勝してから、日常生活に変化がありますか?
ズリア−少しは変わったと思います。人がわたしを覚えていますね。有名と言うプレッシャーに潰されることを避けています。わたしは静かな生活が好き。婚約者のエルレニス・アバニーニョと近い将来結婚します。
−室内世界選手権大会に出場しますか?
ズリア−室内を走ったことはありません。世界選手権後、1ヶ月休暇をとりましたが、その後、喘息が再発したので起きてさらに1ヶ月休養しました。今季の目標は夏にあるので、まだ調整機関は十分にあるので、焦ることもないでしょう。最初のレースは、3月21−25日に開催される国内選手権で、1500mで出場予定です。
コーチ−一度も室内を走ったことがないし、冬が大嫌い!通常、12−14週間、アエロビック・エンデュランス準備期間が必要になっている。短期間に室内世界選手権の準備は不可能です。
−将来の目標は大阪、北京ですね
ズリア−いや、1年ごとの勝負です。大阪、北京も大きな目標ですが、現在の手近な目標は06年シーズンです。まず、7月にコロンビアで開催される中央アメリカ−カリビアンゲームズ、ワールド・アスレティック・ファイナル、アテネで開催されるワールドカップが目標です。コロンビアで1986年アナ・キロットの1分59秒00の大会記録更新を狙いたいと思います。また、400mレース出場も考えています。わたしはこの種目が大好き。また、最近の800mは、最初のラップが56秒台で通過するので、スピード練習は必要ですね。
−今後、目標とするタイムは?
ズリア−昨年、わたしはコンスタントに走る力が付き、ベスト記録が1分57秒92。02年モナコGPでムトラを破った1分56秒09が自己記録ですが、あの時、もしペースが早かったらサブ56秒で行けたとも思います。記録更新には、記録への強い意欲が必要です。アナ・キロットのキューバ記録1分54秒44は、破ることがほとんど不可能ですが、自己記録更新はできると思います。
−アナ・キロットと比較されることをどのように思いますか?
ズリア−わたしはアナを非常に、アスリート、一人の女性として深く尊敬します。アナはキューバ陸上史上の最も偉大な女性アスリート、偉大な女性です。間違ってとられても困るのですが、わたしはアナと比較されるのは好きではありません。誰もがアナの素晴らしいキャリアと比較することはできません。アナが引退した年、わたしの競技歴が始まりました。1995,97年にアナが世界選手権で優勝。キューバに再びタイトルを持ち帰ることができたことは幸せです。われわれの世代は、間違いなく、キューバの伝統を守ってゆきます。
タイトル総なめ、キューバ史上最強女子選手、メネンディス
オスレイディス・メネンディスは、キューバ陸上界の至宝。若干26歳でアスリート念願の総てのタイトルを獲得した、キューバ女子陸上史上最強、初の世界記録保持者である。
槍投げの『女王』と呼ばれ、3月25日、今シーズン開幕戦で早くもキューバ選手権で62.64mを投げて優勝。
生家はハバナから200km離れた西キューバの人口2・4万の小さなマルティ町。家は農家。母親ドーラは元陸上競技の選手で、ソフトボールのピッチャー。父親のユセビソウ・サンチェスも元ピッチャーだった。メネンディスの強肩は、両親の血を受け継いだものと言う。オスレイディスは5人兄弟の長女。3人の弟、1人の妹。11歳のころからスポーツに興味を持ち、叔父さんのペドロ・メネンディスの薦めで始めたと言う。
中学のころから、たちまちに頭角を現し、21歳でキューバ女子陸上選手初の世界新記録を樹立した。シャイで控えめな性格から人に好かれる。キューバ陸上界の大物選手だ。ディオニシオ・キンタノ・コーチ(1971−87年、最高記録84.35m。)と共にインタビュー。
−槍投げに興味を持ち出したのはいつごろですか?
メネンディス−キューバでは中学生ごろまでは、種目を固定しないで、走る、投げる、跳ぶの基本を始めます。このころからコーチが陸上競技の素質があると言って、推薦で家から80kmほど離れたマタンザ市にあるEIDEスポーツクラブに入学。ここでウラディミール・ヘルナ・コーチから、肩が良いので槍投げに向いていると言われたからです。
ディオニシ−キューバでは、陸上競技やそのほかのスポーツの才能発掘のスカウトが全国にいます。メネンディスは、メキシコ五輪ファイナリスト、最初のキュ−バ槍投げ選手が80mを投げたオーレリオ・ホネットESPスポーツクラブに入学。そこで槍投げコーチの指導を受けて、ジュニア国内選手権で49mを投げて才能を認められた。ナショナルチームは全国から集められたエリート選手団。ハバナ市郊外東南にある国立競技場のエスタディオ・パンアメリカーノで寄宿生活をします。メネンディスには1992年初めて会い、当時、「フラカ」(細い)と呼ばれ、投擲選手の体型ではなかったが腕の振りにスピードがあった。
−キューバは男女とも、伝統的に槍投げが強い。その背景はなんですか?
コーチ−キューバは野球が国技。基本的に投げることは教えなくても知っている。槍投げは野球の遠投に似ているからね(笑う)メネンディスも中身を抜いた本物の手榴弾、約800gを投げる練習を良くやりました。
−1999年、新しいルールで槍が改正されたが、対応はどのようにしたか?
メネンディス−わたしが20歳のとき。若かったので新しいモデルの槍に慣れるのも早く、記録は前年が68.17mと66.49mでそれほどの違和感はありませんでした。
コーチ−メネンディスに説明したのは、『新しいモデルの槍は、お前の投擲スタイルにピッタリだ!お前の時代がやってくる!』まだジュニアだけに、順応性は早く、ローザンヌで65m以上を投げた最初の選手になった。
−世界選手権出場は18歳のとき。印象は?
メネンディス−あれが精一杯だったが、決勝に残ったので満足です。
コーチ−彼女は槍投げ伝統国のキューバで史上最強選手。1995,97年パンアメリカジュニア、1996,98年世界ジュニア選手権優勝経験がある。実力もあったが、将来を見据えて国際大会を積ませたのです。それがシドニー五輪で3位に繋がっている。
メネンディス−最初の五輪で3位だったから大喜び!あの経験、結果が大きな壁を越えたと思います。でも、予選で67.34mを投げたんですが、決勝は66.18mでした。
−そして次の年、71.54mの世界新記録を樹立、キューバ女子選手で始めての世界新記録でした。そのときの印象は?
メネンディス−2回目の投擲がグングン伸びて、なかなか落ちなかったのでイッタ!(笑う)と思いましたね。まさか自己記録を4mも越える世界新記録が出るとは思ってもいなかったので、非常に驚きました。世界新記録はわたし個人のものではなく、キューバのもの。また、例えば1980年のモスクワ五輪槍投げ優勝者のマリア・カリダッド・コロンらの諸先駆者らに、捧げるものです。
コーチ−あの年は世界選手権、北京で開催されたユニバーシアードでも優勝。大きくブレークした年でしょう。名実ともに世界の槍投げのトップの位置を不動にしたと思う。
−そして、ヘルシンキでも世界新記録で優勝した。
メネンディス−目標は優勝、そしたら世界新記録が出ました。いつものことで、1投目に最高記録を狙って投げます。最後の投擲に勝敗を託するようなことは時間の無駄。しかし、ヘルシンキは、今まで経験したことがない、最後まで勝敗の行方がわからない厳しい試合だった。クリスチャン・オーベルグフョール(70.03m)の追い上げが凄かった。一度も集中力を逸らしたことがなかった。
−世界のタイトルを総なめ、モチベーションを維持することが難しいでしょう。
メネンディス−まだまだ、モチベーションを失うようなことはありません。さらに、努力して自分の限界に挑戦、キューバの国民に喜びをあげたいと思います。家族、友人のサポート、コーチは2人目の父親のようなものです。まだ、技術的にも投げるフォームが完成されていません。最後のステップのとき、左足首が固定せず、投げるときによってアングルが違ってくる。この左足のポジションの角度が、少なくとも数メートルの距離をロスしている。まだ、肩と、フィニッシュのスピードだけで投げている感じですね。
コーチ−投げるときの技術的な問題がありますが、最終ステップの左足が開き過ぎるために。身体も開きすぎるのです。左足首がまっすぐに着地するだけ、74−75mを投げることが可能だと思います。もちろん、科学的にも75mを越えると、データーが出ています。多分、北京までには、この問題を解決できるでしょう。
−腕のケアはどのようにしていますか?
メネンディス−毎日、投げる練習が終わってから、アイシングとマッサージを欠かせません。人生の大半を投げている腕、肩ですから、自分の心臓のようにケアは大切にしています。
−次のゴールは大阪と北京五輪ですね。
メネンディス−大阪に焦点をあわせているのは、ラテンアメリカで最初の3回目の優勝者になり、最初のラテンアメリカで連続優勝を北京で遂げたい。今年は中央アメリカとカリビアンゲームズ、ワールドカップの優勝かな?スチュットガルト開催のワールド・アスレティック・ファイナルは、地元ドイツのライバルががんばってくるので勝つのが難しいでしょう。
コーチ−キューバの槍投げ伝統は、若手の成長も進んでいます。当分、世界最強女子槍投げ選手はキューバのものでしょう。
(06年月刊陸上競技誌、4月号掲載)