ブランカ・ブラシッチ(クロアチア、24歳)は、大阪で初のビッグタイトルを獲得した。一段と高い表彰台壇上で、目を真っ赤にして、大粒の涙を拭おうとせず流れるままに任せた。天才少女と呼ばれ16歳でシドニー五輪に出場。クロアチア10種目競技記録保持者の父親、ヨシコ・ブラシッチ(51歳)、元走り高跳び選手だったボヤン・マリノビッチ(37歳)らが手塩に掛け、陸上競技不毛の土地に開花した大輪の「華」と言えよう。現女子走り高跳び世界記録はステファ・コスタディノワ(ブルガリア)が、ローマ世界選手権で樹立した2.09mだ。ブランカは210cm挑戦すること24回を数えるが、難攻不落の世界記録だ。193cmの長身、稀に見る恵まれた身体から無駄のない器用なジャンプをする。今季のプライオリティーは、北京五輪優勝を掲げているが、ゴールデンリーグのジャックポット優勝、チャンスがあれば世界新記録をも当然ながら狙って行く。
勉学かスポーツかの選択
ブランカは地中海沿岸の雰囲気いっぱい、ユネスコ「世界遺産」に登録されているスプリット市の旧港近くに住んでいる。クロアチアは観光産業が最大のビジネスの国だ。日本でもクロアチの第2の都市アドリア海に面している風光明媚な観光地として知られてきた。旧ユーゴスラビアから1992年に分裂、独立した人口450万人の小国。伝統的に、このスラブ系の国民は「球技」が得意で、サッカーで日本とは過去2回のワールドカップで対立。バスケット、テニス、ハンドボール、水球など、国際トップクラスだ。この分野では多くの人材を世に出しているが、陸上競技は弱小国のひとつだ。ブランカは「この国では努力より結果が重要なこと」と言って、大阪の優勝を契機に切手が発行され、存在が認知されてきた。世界でも珍しい普通のビル4階内に特設された、ブランカ仕様室内競技場で基礎練習を見学した。
−世界中を探しても、この私設走り高跳び練習場をもっている選手はいないでしょう。
BV−これは私個人のものではありません。スプリット市とある人の好意で借りているものです。設備は父親がわたし用に設計、すべて、走り高跳び練習用のものです。夏は近くのASK PK Split,(注:市内にはふたつのクラブがあるだけ)クラブの競技場で練習します。
−どのような形でスポーツに関わりましたか
ブラシッチ−父親が10種目競技の選手、母親がノルディック、バスケット、陸上競技の選手だったので、小さいころから家族中がなんらかの形でスポーツと親しんできた環境から極自然にです。
−16歳でシドニー五輪出場しているが、その時の印象は?
ブラシッチ−結果はともあれ、イイ経験をしたと思います。五輪前の最高記録が1.93mで、五輪で1.92mを跳んで予選落ちしたが、あれ以上は無理。やはり五輪は独特の雰囲気があって楽しかった。(注:99年世界ユース選手権8位、00年世界ジュニア1.90mを跳んで1位、02年同大会1.96mを跳んで1位、03年欧州U23選手権1位、01年欧州ジュニア選手権7位などの結果だった。)
−ジュニアで最も印象に残る試合は?
ブラシッチ−ジャマイカのジュニア世界選手権。1.96mの自己最高記録で優勝した時でしょうね。あれはいい自信になりました。
−そのままプロ転向したのですか
ブラシッチ−薬剤師を希望していたので、高校卒業前、二股を掛けるのは難しいことを知っていたので、人生に悔いを残さないためにも今しかできない走り高跳びを選びました。
―ジュニアで好成績を残してきたが、01年世界選手権6位、03年7位、05年予選敗退など、以外と世界選手権に大阪まで運がなかった?
ブラシッチ−ジュニアから大きな国際大会で競技しなければならないのは、経験、実績、記録など、大きなハンディキャップをイヤと言うほど経験してきました。運がなかったのではなく、結局、実力が伴わなかったと思います。01,03年の世界選手権大会で決勝進出しているし、あれは十分な結果だと思います。05年はノドの手術を終えて5ヵ月後。練習も満足にできなかったので予選落ちは当然の結果。この世界それほど甘くありません。
−アテネ五輪で1位、結果をどのように受け止めましたか?
ブラシッチ−アテネ五輪は運が悪かった。出発前に熱があったので出場を取り止めようかと思いました。でも4年に一度のチャンス、無理を承知でアテネに飛びました。予選突破したものの、決勝は跳ぶ力はもとより、立っているのがやっと。試合後、医者が「この状態でよく決勝に残った」と、驚いていました。そんなこともあって、病気はノドが関係したので手術(注:Thyroideus)を受けました。
−03年、7月2日ザグレブ大会で2.00mを記録しています。「2m」の数字は心理的に重く圧し掛かかりましたか。
ブラシッチ−2.00mはある種のマジックナンバーでもあるし、2mの記録保持者は一流選手の証でしょう。女子走り高跳び選手なら誰でも一度はこの壁に挑戦、乗り越えなければならない問題です。いやおうなく心理的に重く圧し掛かってきますね。しかし、1.90mぐらいから始まって、1.95,1.98mなど、成長の過程になんどか直面しなければならない「高さ」で苦労します。
−06年欧州選手大会で優勝はティア・ヘエルブート(ベルギー、29歳)が、あなた方の目の前であっさり2.03mを飛んで優勝。どのように受け止めましたか?
ブラシッチ−欧州選手権大会は五輪、世界選手権並みのレベルです。その日の調子如何で結果に出てしまいます。少なくともあの大会ではメダル獲得を目標にしたんですが・・・、4位。
―今季オスローで198m跳んで2位。それからすべて2mジャンプを連続17回、17回連続優勝。8月7日、ストックホルムで開催されたDNガランで2.07mをクリアー。これまで24回2.10mに挑戦、世界記録がぐ〜んと接近してきました。今季の「ブレーク」をどのように捉えますか?
ブラシッチ−07年の結果は非常に満足しています。史上3人目の2.07mの記録、大阪世界選手権優勝は初の大きなタイトル獲得など、わたしの「夢」がかなえられました。昨年、最初の屋外試合、ドーハGPで調整なしの冬季練習そのままの状態で2.04mを跳んで、記録が出る予見と自信を持ちました。これらの素晴らしい結果は、長年の猛練習と一歩ごとに進歩してきた実績の上に築き上げられたものですから、ここにきて急に「ブレーキ」したとか、急に跳べるようになったとは違いいます。世界新記録へは挑戦が始まったばかり。2.05〜07mをコンスタントに跳べるようになって始めて、2.10mが現実化されると考えています。ブリュッセルGLで試合後TVを見て初めて、わたしに世界新記録樹立できる可能性がありそうな感触を?みましたね。
−今年は世界記録狙いのシーズンにもなりますか?
ブラシッチ−どこに行っても同じような「いつ」、「どこで」など、世界新記録宣言、予言を期待しますが、わたしは自身がわからないですから返答の使用がありません。ただ、わたし、父親、ボヤンらは、世界新記録への挑戦は一歩一歩の努力以外に「術」はないと考えています。
−コーチがあなたの父親とボヤン・マリノビッチの2人の分担はなんですか?
ブラシッチ−父親は元10種目選手(現クロアチア記録保持者)で、フィジカル担当、走り高跳びに必要な基礎練習を始め、そのほかのいろんなことでサポートしてくれます。ボヤンは元走り高跳びの選手だったので、わたしが陸上競技を始めてから走り高跳びを薦めて以来の技術的なコーチです。
−大阪の表彰台で感情的になりましたね。
ブラシッチ−そうね(笑う)念願の初めての大きなタイトル。勝った瞬間から泣いちゃった。
−大阪世界選手権や日本の印象は?
ブラシッチ−予想以上に日本の観客は、「ノッテ」くれて拍手でバックアップしてくれました。わたしは日本食、鮨なども大好き!またチャンスがあればぜひ行きたいですね。
−帰国時、市をあげての歓迎振りは?
ブラシッチ−決勝2日前、ここから近いティスノ島に消火に向かったスプリットの12名の消防士が焼死した悲劇的な事件が起きたので、歓迎パーティーを自粛しました。わたしも大阪で喪章をつけていました。
−今季の目標は大きいと思いと思いますが、このままだと室内世界選手権、GLジャックポット優勝、世界新記録、五輪優勝、IAAF年間最優秀選手など、世界中から大きな期待が掛かると思いますが、今季最大目標はもちろん五輪でしょう。
ブラシッチ−できれば全部勝ちたいと思いたいが、大口を叩くのは止めましょう。調整は五輪優勝を最優先します。そして07年シーズンのように、はじめから終わりまで試合をエンジョイしたい。昨季は試合に勝ち、記録を伸ばすことができたので、これほどスポーツが楽しかった経験が今まありません。
−あなたに最も大きな課題はなんですか?
ブラシッチ−練習をきちんと消化して、試合に集中、テクニックを考えリラックスして跳ぶことだと思います。このスポーツは、ちょっとしたことで故障が起きるので、5%以下の諸問題に抑えることができるならば、わたしが世界新記録を破るチャンスは自然と生まれてくるだろうと思います。わたしのポテンシャルは自分でもわからないし、世界新記録以上の力を持っているかもしれないが、日々の努力なしで結果が伴いません。
−まず、室内世界選手権を楽しみに。
ヨシコ・ブラシッチ(51歳)
プロのコンディショニングコーチ、現クロアチア10種目7659点の記録保持者。83年地中海イズミール大会で樹立。走り高跳び203cmを跳ぶ。ブランカは長女。次男マリーン(20歳)は、テキサス州ダラス市のリッチモンド大学2年生、バスケットボール選手。スポーツに全く興味がない12歳、サッカー選手のニコラは10歳の3人兄弟。母親は元ノルディック、バスケットボール選手のスポーツ一家だ。「ブランカ」は、1983年カサブランカで開催された地中海大会で父親が10種目競技で優勝。それに由来するものだ。
「ブランカは大阪でよくやったと思う。五輪優勝に全力を集中できる環境を与えたい。ことしはどんな状況、今現在でも2mをクリアーする力をすけたことが大きな進歩です。
ブランカはスポーツ大好きな家庭環境に育った。親から子供たちを見た場合、ブランカよりマリーンは10種目競技をやらせたら世界新記録も夢ではない質素の持ち主だと思うし、末っ子のニコラは家族の中で最もスポーツに才能があると思う。ブランカがここまできたのは努力とスポーツに対する積極な性格がもたらしたもの。この施設を使用提供を受けたのは、ブランカの成長と共に、スプリット市と資産家の人がブランカ個人使用のため、800平米(直線53mx幅16m)と無料駐車場を3年前から提供を受けている。それまでこの町には室内陸上競技施設がなかったので、冬季練習はかなり厳しい環境で冬季練習を続けてきた。ブランカはプロ選手転向前、高校の成績が全科目オール5(最高点は5)の優秀な生徒だったので進学希望で薬剤師になりたかった。高校卒業時、ブランカの将来を左右する大事なことなので、よく話し合ってから方向性を決めたのが良かった。わたしは子供たちにスポーツ、勉強も強制はしたことが一度もありません。適正なアドバイス、子供たちの才能を最大限にのばす環境作りを整えてやるのが義務だ思っています。ブランカの場合、彼女の才能を最大限に伸ばすことのできる練習場、設備、試合に最高の状態で集中できる環境作りがわたしの仕事だと思っています。」
ボヤン・マリノビッチ(37歳)
「彼女が13から4歳後ごろから見ています。走り高跳びに適した天性の体型と動きのバランスが良かった。わたしの役目は技術的なアドバイス。ブランカは走り高跳びの世界記録の潜在的能力は十分にあるが、それだけで世界新記録を樹立できるとは思えない。努力、運、調整など、いろんな条件が重なって始めて達成できるもの。彼女はまだ若いので、目先のことに惑わされることなく、急がずゆっくりレベルを高めて進歩させるのが大切だと思います。」