shot
 
NEWS

スプリンター王国、ジャマイカ男女スプリントを制覇

伝説の「Great Four」から「稲妻ボルト」

8月20日、朝のセッション終了後、ある記者会見で200m世界記録保持者のマイケル・ジョンソンは、数時間後に控えた男子200m決勝に出場するウサイン・ボルトについて聞かれた。ジョンソンは、「19秒32の世界記録は100mの世界記録を破るより難しい。ボルトは偉大なスプリンター。近い将来かれによって世界記録は破られると思うが、コーナリングなど技術的に難点があるので、今夜は世界記録を破るのは無理だろう」との見解を述べた。

ジョンソンの舌の根も乾かないうちに、ボルトはジョンソンすら予測できなかった19秒30の驚異的な世界新記録で2冠目、2回目の世界新記録で優勝。レース直後、知人がジョンソンに、ボルトの世界新記録にコメントを求めると、ただ「Wow!」と発しただけ。やはり、ジョンソンもかなり強烈なインパクトを受けたようだ。後日4x100mでも世界新記録でジャマイカチームが優勝。水泳で8冠獲得したフェルプスに並ぶ北京五輪のスーパースターになった。

ジャマイカは人口250万。国土は東西約230km,南北の幅は最も広いところで約90km,たくさんの山々がある平坦の少ない島国。キューバ,ドミニカ共和国に次ぎカリブ海諸国で3番目の大きさ。1494年5月4日,コロンブスが2度目の航海で島の北部・オチョリオスに上陸,スペイン領土を掲げた。先住民インディアンのタイノ語で,ジャマイカは「水と森の土地」の意味。彼らが名づけたハンモック,ハリケーン,タバコ,バーベキュー,カヌー等の言葉が英語に残されただけで,原住民は虐殺されたか,外部から持ち込まれた病気で全滅したとか。現在のジャマイカ人の95%は,スペイン植民地から大英帝国(1655〜1962年)時代の長期に渡る植民地政策で,砂糖きび農場の働き手として西アフリカのガーナ,ナイジェリアから連行された奴隷が祖先と言う。

島の中を車で動くと、あたかも何度も訪れたことがある西アフリカの海岸沿いの諸国に近い印象を強く受けた。

昨年11月10日、85歳で永眠した伝説の「Great Four」の一人、ハーバート・ヘンリー・マッケンレーの自宅を訪れたことがある。今から半世紀前,ジャマイカ短・中距離の偉才軍団,マッケンレー,ジョージ・ローデン,アーサー・ウィント,レスリー・ライングらが、ロンドン、ヘルシンキ五輪,中米カリビアン選手権のほか,世界中の競技会で活躍した。短命に終わったが、興行的なプロ陸上にも参加している。マッケンレーは1948、52年の両五輪で100m(52年2位),200m(48年4位),400m(48,52年とも2位),4×400mリレー(52年優勝)のすべてにファイナル進出。現在でもその偉業を超える者はいなかったが・・・。『偉大な4人』の金字塔は,後世に伝えられ,若い世代に永遠の精神的な支え,そして誇りと目標になっている。偉大さのプレッシャーに,時には後継者が育つことが難しいときもあるが,ジャマイカは短距離選手の人材にはこと欠かない。ただ、五輪100m優勝に縁がなかった。

ボルトの走りを最初に見たのは、02年、ジャマイカ首都のキングストンでジュニア世界選手権大会が開催された時だ。ウサイン・ボルトは15歳ながら200mに出場、あっさり20秒65で楽勝。ニックネーム「稲妻ボルト」と呼ばれて将来を期待された逸材だ。ボルトの将来性、ジャマイカスプリントの強さ、伝統など、多くの人たちに取材した。

ドン・クォーリーは、1972年ミュンヘン大会から連続5回五輪出場。「コーナーの魔術師」と呼ばれ,76年モントリオール大会で200mに優勝。その功績によって国立競技場前に、半世紀前にジャマイカの名前を世界に轟かした、マッケンレー,ローデン,ウィント、ライングらの偉大な「Great Four」の銅像に隣接して、オッティー、クウォーリーの銅像も立てられている。クォーリーは、国内でマッケンレー,オッティに並び尊敬されている。日本でコーチをした経験もある。かれに、「ウサイン・ボルトは,クォーリー二世になる可能性はあるか」と訊いたことがある。クォーリーは、「かれの年齢で20秒56というのは,おそらく世界最高だろう。潜在能力は凄いが,将来どのように伸びるかはだれもわからない。聞くところによると400mをあまり好きではないらしいが,彼の体つききからすると,やがて400mを走るほうが大成するように思う。彼のコーチ,パブロ・マックニール(東京五輪100m準決勝進出)は私の友人で,非常に良い指導者だ。彼のもとで焦らないで練習を積めば,4年後ぐらいがとても楽しみだ。才能だけでは大成しない。だから,精神面でも成長して欲しい。国内の企業はスポンサーにならないし,優れた設備はない。ジュニアレベルまでのコーチはたくさんいるが,シニアのコーチが非常に少ないのも欠点だろう」と説明してくれた。

ソウル200mで2位になったグレース・ジャクソンは、「私たち世代は,マリーン・オッティに刺激された。ジャマイカ女性選手が国際舞台で活躍する直接の動機になったと言える。ジャマイカの良いところは,国が小さいので陸上界が家族のようなもの。精神,肉体の限界まで追い詰めての練習,激しい競争がない。少しのんびりしているが,そんなところもジャマイカ的だ」。また、バルセロナ五輪100m,200mでいずれも銀メダル。ベスト記録は100m10秒83,200m21秒75のジュリエット・カスバートは、「ジャマイカの短距離が強いひとつの理由は、男のスプリンターならマッケンレー,カー,ウィント,クォーリー,女ならオッティのような先駆者たちに追いつけ,追い越せ,と……扇動されること。夢と希望を追う宿命になっているんです。国内なら高校、大学まで,家族,友人が才能ある選手を支えてくれるでしょうが,大学を卒業して,陸上競技で日常生活を支えることはほとんど不可能。アメリカの大学の奨学金に頼らなければならないのが現状ですが,これも世界ジュニア選手権で活躍でもしない限り無理な話。だから経済的な理由でスポーツをやめる人が多いのも事実です」と。

「世界的な短距離選手を輩出したのはおそらくアメリカに次いで世界で最も多く,これを私は『スプリンター生産工場』と呼んでいる」と言った著名なジャーナリスト、ジミー・カーネギーの言葉を思い出した。

ジャマイカが強くなった背景には,1910年から国内のいたるところで行われている高校生の男子を対象にした『Champs』と呼ばれる競技会がある。現在はもちろん女子も参加でき,毎週のようにどこかで開催されている。この大会は世界ジュニア選手権より観客の熱狂度は高く,家族,親戚,友人,地域の人たちが連れ添って応援に行く。楽しそうな運動会といった雰囲気らしい。

ある人はジャマイカの強さの秘密を『アフリカ人の能力がそのままオリジナルに似た環境で生存,継承されて自然に鍛えられた』とも言う。地理的な環境,平坦はほとんどなく(最高峰は2256mのブルーマウンテピーク),丘ばかりで起伏が激しく,子供のころから自然と足腰が鍛えられてきた。いずれにしても,いろんな要素が組み合わされてのことだが,アフリカの部族,スペイン,イギリスなど,多種の混血などの利点もあるだろう。

しかし,素材は豊富だが,これまで素質を大きく伸ばすだけの環境が国内に存在しなかった。国内の施設は古くて十分ではない。スポンサーは望めない。経済的なバックアップなどはアメリカのスポーツ奨学金に依存しなければならなかったのが実情だった。

クォーリーでさえも、ボルトは100mには不向きで400m向き、人によっては800m転向がベストだと断言した人もいたが、既成概念を崩す異例な長身スプリンターだ。あれから6年、北京五輪でのボルトの100mの成長は予測をはるかに超えていた。これまでジャマイカの五輪100mは、男女共に不思議と一度も勝てなかった。ところが。北京五輪で大ブレークを起こした。待望の名実共に「スプリント王国」が誕生した。男子100、200mでボルトが驚異的な世界新記録で圧勝。4x100mでも世界新記録を樹立。3冠を獲得。一方、「ボルト効果」は女子にも及び、女子100mで上位を独占、200m、400mHをも制覇して史上最高の偉業を達成した。

アサファ・パウエルが100mで世界新記録を連発。「スター誕生」から、ジャマイカ陸上競技界の状況が急激に変わってきた。長年スプリンター育成には、アメリカの大学からスポーツ奨学金を得て、施設、コーチの優れているアメリカで素質を伸ばすことが最良だと考えられていた。ジャマイカ国内に全天候型陸上競技場は2箇所しか存在していないが、パウエル、ボルトらのコーチは生粋のジャマイカ人で天然芝を活用して独自の練習をしてきた。知人のオブザーバーの記者は、北京五輪のすべての結果は、「やればできる!この自信がすべてだ!」と語った。

「Great Four」が活躍した半世紀前から、このぶ厚い先駆者たちの壁を破った先鋒が、スプリント3冠ウサイン・ボルトの「偉業」だと言えよう。ポテンシャルは存在したが、長い間鬱積されたものが、ボルトの活躍に刺激されてなだれ現象を起こしたのだ。

07年、キングストンを再訪した目的は、男子100mで世界新記録を連発したアサファ・パウエルとウサイン・ボルトの取材だった。

パウエルの両親は牧師の家庭に育った。いいところの家庭の息子と言った印象だった。5年ぶりに見るボルトは一回りも大きく成長。パウエルと対照的な野性味を強く残したダイナミックな「サラブレット」を見る思いで、とてつもないポテンシャルに驚いたものだ。

ジャマイカ陸連は、これまでGreat Four、オッティ、クウォーリーらの功績を称えて、国立競技場前に3立像を建立してきたが、五輪後はいったいどうするのだろうか。嬉しい悲鳴を上げているだろうか。

 
(08年月刊陸上競技10月号掲載)
(望月次朗)

Copyright (C) 2005 Agence SHOT All Rights Reserved. CONTACT