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マーティン・レル、ロンドン3連勝をターゲット

今秋、ベルリンで世界記録に挑戦

「マーティン、完全復活!」と、クラウディオ・ベラルデリコーチからロンドンに向けて嬉しそうなeメールがあった。円熟期に入ったマーティン・レル(ケニア、30歳)が、北京五輪後に故障でまともな走りができるようになったのは昨年11月末からだ。言葉数の少ないレルが、史上初のロンドン3連勝、今秋のベルリンで「ハイレの世界記録に挑戦したい」と、クールな男が珍しく決意を口にした。マラソンランナーはトラック出身者が多い。が、レルは22歳ごろから本格的に走り始めた遅咲きのロードスペシャリストだ。03年世界ハーフ、NYマラソンなどで優勝してからポール・タガートの後継者、未来の大器と言われてた期待の星だった。04年1月末、レルにカプスサベット・キャンプ地で逢ったことがある。あれから5年が経過、レルは世界で最も優勝が難しいロンドンで3勝、2位1回、NYで2勝、ボストン3位2回などで、活躍して大きく成長した。昨年ロンドンでサム・ワンジル(ケニア、23歳)と雨中の激戦を、ゴール直前のスプリント争いで制し、歴代4位の2時間5分15秒で優勝。初出場の北京五輪優勝候補筆頭にあげられたが、アミーバー、マラリヤに犯され、最悪の調子でも完走して5位。世界マラソン界で最もコンスタントな結果をだす現世界最強選手のひとりだ。レルは、「マラソン世界記録は、ケニア選手の手で奪い返したい。ワンジルと一緒に走れば世界記録は可能だ」と断言する。

生真面目な性格、マラソンにすべてを注ぐ男

マーティン・レルは、ケニア長距離の「宝庫」のカプサベット出身の「ランナー」の申し子だ。エルドレットとカプサベットを走る悪路で名高い国道の中間あたりで、赤土の脇道に入り5kmほど行くとキプンゲル村がある。ケニアのどこにでも見られる小高い起伏のある典型的な円形の土蔵の草かトタン屋根の農村風景がある。ある地点から地肌がブルトザーで削り取られ道路幅が拡充された道路を走る。後から聞くと、そこからがレルの土地だとか。ケニアの西部のエルドレット、カプサベットは、ケニアで世界陸上史上に燦然と輝く名選手を生んできた土地。レルは不動産、100エーカーの大農場を購入。乳牛、トウモロコシ畑、そのほかの穀物を生産している。キプンゲル村の南に面した緩やかな斜面にかなり広大な敷地内に両親、自分の家、諸々の近親者、寄ってくる友人知人を拒むことをせず、敷地内に受け入れて面倒を見ている。その数は多かった。レルは世界で最も高額出場料を獲得するランナーの一人、莫大な賞金、ボーナスを稼ぐことのできる選手。にもかかわらず、かれの基本的な質素な日常生活は、5年前とほぼ変化は見られない。レルに数日間同行、めったに公開しないかれの家に招待されて家族とも話す機会を持てた。

あの状況で5位になった自分を誇りに思う

(ある日、マーティン・レルとクラウディオ・ベラルデリコーチは、レルの出身校A.C.K キムゴシュ校の卒業式に貴賓客として招待されたので同行した。レルはここの校長から天性の走る素質を認められ競技者になるを奨励されたという。レルの久しぶりの出身校の訪問。校長以下、大勢の学生から大歓迎を受けた。祝辞を述べ、生徒全員にTシャツ,帽子などを贈呈した)

−久しぶりに母校を訪れた感想はどうですか。
レル−やっと校長先生と約束を果たして大変に嬉しい。馴れないスピーチなどしたが、学生になにかの刺激になればいい。そもそも走ることの始まりは、この中学校校長が「ぼくには素質がある」と言われて、校長から走ることを奨められたからです。もちろん、本格的に走り始めたのは、00年の「ディスカバリーケニア」と呼ばれる新人発掘レースで優勝したため、ロザの合宿所に入って本格的な指導を受けるようになったからです。

−キプンゲル村から中学校のあるキモゴチャ校までかなりの距離があるが、通学はどうしたの。
レル−小学校は家の直ぐ目の前の高台にありますが、中学校までは約15kmあります。毎朝5時半に起床して、学校の始まる8時に間に合うように徒歩で通学しました。今でもこの状況は変わっていません。授業に遅刻すると大変なことになるので、在籍中の4年間、遅れないように起伏の激しい山道を良く走りました。(笑う)

−それで健脚になった。
レル−歩くか、走る以外に、交通手段がありませんからだれだって健脚になりますよ!雨が降った日は裸足。そんな日の登校は嫌でしたね。

−卒業後も走っていたのか。
レル−1998年学校を卒業してからある会社に勤めながら好きで我流で走っていた。1999年ロスマラソンで優勝したサイモン・ボーらの勧めでかれらと一緒に練習していた。プロランナーになるようなチャンスあるとは思っていなかったが、あのレースがぼくの一生を大きく変えました。

−02年プラハでマラソンデビューしたが途中棄権。
レル−00年「ディスカバリーケニア」で優勝したのは1月末。ロザ、マネージャーの彼の息子らに薦められた。2年後のプラハで初マラソンに出場したので完全に練習不足で途中棄権。その年の秋、2回目のマラソンがヴェニス。2位になって自信が付きました。

−北京五輪5位が最悪の結果になってしまったが・・・。
レル−アミーバーで腹の具合が思わしくなく、マラリヤにもやられていたので体調は最悪の状態だった。一時は五輪を棄権しようと思ったが・・・、友人のロバート・チェルイヨットもぼくより早く故障で五輪出場辞退したので、先を越されたような状況になってしまったが・・・(笑う)。このチャンスを逃すとこの次はないと思って無理を承知で出場しました。だからあの状態で完走できて5位に食い込んだのは、人はなんて思うか知りませんが、自分では良くやったと思いますね。

−選手権のタイトル獲得が非常に少ないが・・・。
レル−世界選手権に出場したことはないし、初の北京五輪は5位だったのでタイトル獲得は、03年、ヴィラモウ(ポルトガル)開催のハーフ世界選手権優勝だけ。(笑いながら)でも、世界の精鋭が集結するロンドンは、世界選手権、五輪より勝つのは難しいと思います。ロンドン、NYで優勝しているから、選手権で優勝してなくてもなんとか埋め合わせができるでしょう。ぼくの経験では、ロンドンが最も難しいと思います。

−あなたはロードスペシャリスト。練習は不整地を走るクロカンが主力だが、クロカン、トラックレースに参加しない。特別な理由がありますか。
レル−特別な理由はありませんが、学校では1500,5000mを走ったことがあるが勝てなかった。国内のクロカンレース出場経験ありますが、強いて言えば同じところをグルグル走り回るトラックを走ることは好きじゃあないからです。

−近年、ロザのからクラウディオ・ベラルデリコーチに変わったが、どんな違いと影響を感じますか。
レル−クラウディオから直接コーチを受けるようになったのが07年。クラウディオの練習プログラムは、基本的にロザのものを使用しているので大きな相違はありません。これまでロザはファックスで練習プログラムを送って、それをキャンプのリーダーが先導して練習を消化してきた。われわれはプロランナーの集団ですから、かれの手法も一つのシステムでしょうが、いくら文明の利器、電話、ファックス、PCなどを利用してリモールコントロール的な指導ですが、あれには限界がありますね。それをロザが気がついたため、クラウディオをエルドレットに常勤させているのです。われわれと同じ環境で衣食住をともにして、毎日練習を見てくれる。練習後に個別に適切なアドヴァイス、マッサージを含めた細部にわたる24時間体制で選手に接する指導者の態度は、理想的な環境と思います。人間的な選手と指導者の信頼関係、これが近年最高の結果を生んできたと思います。

―コミュニケーションが大切ですね。
レル−そうなんです。クラウディが若いので、最初のころはなにができるのかな、われわれが舐めていたようなこともあったが、かれの知識、指導力、情熱はわれわれの想像を超えたものだった。今では、かれはケニアで最も実績にある有名な中・長・マラソンコーチとして尊敬を受けています。

−個人的にも、昨年のロンドンで大幅に自己記録更新ができた。
レル−そうですね。06年ロンドンで2時間6分41秒から、昨年はワンジルと最後まで競ったため、自己記録を1分半ぐらい短縮することができました。これもクラウディオの調整があったからこそです。

−あの気象状況の中での5分15秒をたたき出した自信が、ハイレの世界記録挑戦の刺激になったのですか。
レル−そうです。昨年の悪天候の中で現世界記録に一歩近づいた自信、平坦なベルリンとロンドンの難コースの違いを比較して割り出すことができます。ハイレは尊敬する偉大なランナー。あの世界記録は凄いと思いますが、かれの記録もまた難攻不落ではないと思います。チャンスさえあれば、ベルリンでハイレの世界記録に挑戦をしたいと思います。サム・ワンジルのような、スタートから積極的にグングン押すタイプのランナーが必要です。気象条件さえ恵まれれば、われわれ2人が一挙に世界記録を破るチャンスもあるでしょう。

−エルドレッドから20km離れた家まで、運転手つきの車があっても使用しないで、マタトゥウ(乗り合いミニバス)かバイクタクシーの後方に座って帰宅するなど、4年前とライフスタイルをほとんど変えていませんね。
レル−自然に任せているだけ。世界のトップの位置を継続してゆくには、規則正しい簡素な生活が必要だと思います。現役ならばいろんな形で自己の欲望を抑え、格好いいライフスタイルを犠牲しなければ継続することが難しいでしょう。ぼくは田舎出身。ここはマイペースで生活できます。街中の生活はストレスが溜まるだけ。豪華な車を乗り回すようなことは、引退してから十分に楽しむことができる。今は高級車よりピックアップのほうが田舎の生活には最適なんです。確かに、事故が起きる可能性も高いが、マタトゥウ、バイクは安くて手軽に利用できるから便利なんですね。

−ここは敷地内が小さな村のようですが、一体なん家族が住んでいますか。
レル−なん家族、何人だろうか。ぼくは6人兄弟、3妹で、4番目生まれ。姪、従姉妹、友人知人も出たり入ったりしているから・・・、数えるのは難しい。ケニアの風習として、収入のあるものが親戚、近所の人たちの面倒も見てやらなければならない大家族制度の義務があります。くるものを拒むことはできません。お互いに助け合い、あるものが貧しい人たちに恵んで助けるのは当たり前なことです。

−あなたのお父さんも長距離を走っていたとか。
レル−そうらしい。父(マティアス・ムクル、62歳)は、1968年ごろ、3000m障害レースでキプ・ケイノらと一緒にレースした経験があるとか。母親は(クレメンディナ・ムクル、57歳)、100、400m、走り幅跳びの選手だったので、ぼくの兄も長距離選手だったので、陸上競技の血は両親から受け継いだのでしょう。

−ワンジルの走りをどう思いますか。
レル−最近のレースでは、2勝1敗の成績。ぼくが07年10月のグレート・ノース・ランのハーフ、08年ロンドンで連勝したが、北京五輪で負けている。サムは、無謀と思われるような野心的なレース展開ができるランナー。やがてかれの時代がやってくるでしょう。かれと3月リスボンハーフ、4月ロンドンで走るのは楽しみです。

最後に、クラウディオ・ベラルデリコーチの言葉を付け足しておこう。

「マーティンはロンドン3連勝を目標しているが、ワンジルは2時間4分の世界記録を目標にして走ることを公表している。もちろん、マーティンは勝つためにはワンジルのペースを追って行くだろう。ぼく自身ロンドンで世界記録を破ることは難しいと思うが、なにが起こるか予測が非常に難しい。ワンジルはこれまで2度もマーティンに敗れた苦い経験から、最後の300mでマーティンとスプリント決着を避けるため、北京五輪のように最初からハイペースで引き離しに掛る作戦を取ると予測する。もし、気象条件が良く、ワンジルがハイペースで飛び出し、マーティンとそのほかの選手が後続するならば、凄い記録が出る可能性もあるだろうと思う。今秋のベルリン出場に関しては、ワンジルもベルリンで世界記録に挑戦を口にしているし、マーティンも記録狙いはベルリンが最高のコースであることを十分承知している。現在はなにも正式に決まった分けではない。ロンドンの結果次第ですべてが決まるだろう」

 
(09年月刊陸上競技4月号掲載)
(望月次朗)

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