「走ることはわたしの血の中にある!」ハイレ引退を撤回。東京、ロンドン五輪を目指す 11月7日、男子マラソンの世界記録(2時間3分59秒)を保持するハイレ・ゲブレセラシエ(エチオピア、37歳)が、NYシティ・マラソンで右ひざ痛を理由に26km付近で途中棄権。その後の記者会見で突然の引退発表を行った。「今まで引退を考えたことはなかったが、初めて頭に浮かんだ。今日がその日だ。若手にチャンスを与える」と口にした。辛辣さで定評のあるNYの記者のたたみこむような「もう走ることはないのか?」との質問に、涙ながらに「Yes」と明言した。この衝撃的なニュースは世界中に飛んだ。右ひざはレース約2週間前の練習中に痛め、前日の検査で患部に炎症が起きていたことが判明した。ハイレはこれまでその長いキャリアの中で再三常識を打ち破って大勝負に勝ってきた。96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪で10000mを優勝。驚異的な世界新記録を出した08ベルリン・マラソン前には、歩行さえ困難なほどの絶望的なアキレス腱の故障を抱えたにも関わらず、奇跡的に立ち直って連勝を続けてきた。これらのエピソードを知る人は少ない。 ハイレの脳裏を引退の二文字がかすめたのは今回が初めてではない。本格的にマラソンに転向した後、05年2回目のロンドン・マラソンでは、喘息とロンドンの街路樹による花粉症が原因で呼吸困難になり途中棄権。公表こそしていないが一時は引退を考え、その後マネージャーのヨス・ヘルマンスに説得されて引退を撤回したという経緯がある。一方で、09年世界クロカンで優勝、初マラソンでこのNYシティ・マラソンを制したゲブレグジアベール・ゲブレマリアム(エチオピア)は、今回の彼の衝撃的な引退宣言にも、「ハイレは根っからの走るのが大好き人間、エチオピアに帰ったら引退を撤回するよ。」とコメント。クールに傍観していたのが面白い。 ハイレの脳裏を引退の二文字がかすめたのは今回が初めてではない。本格的にマラソンに転向した後、05年2回目のロンドン・マラソンでは、喘息とロンドンの街路樹による花粉症が原因で呼吸困難になり途中棄権。公表こそしていないが一時は引退を考え、その後マネージャーのヨス・ヘルマンスに説得されて引退を撤回したという経緯がある。一方で、09年世界クロカンで優勝、初マラソンでこのNYシティ・マラソンを制したゲブレグジアベール・ゲブレマリアム(エチオピア)は、今回の彼の衝撃的な引退宣言にも、「ハイレは根っからの走るのが大好き人間、エチオピアに帰ったら引退を撤回するよ。」とコメント。クールに傍観していたのが面白い。 引退の真相は?ハイレとマネージャーのヨスの話を総合した。ことの起こりはちょっとした手違いで、それが大きなニュースを生んでしまった。ハイレが途中棄権したため、ヨスがホテルで待機していたところ、主催者はハイレをそのまま記者会見場に連行してしまった。ハイレは数カ月におよぶ万全な努力が水泡に帰した大きな失望と、主催者側の期待に応えることができなかった悔しさとで、いつにない感情の高ぶりを見せていた。しかし、待機していた記者たちはこの時とばかりに質問をぶつけ、ハイレは無防備な状態で攻撃の的になってしまった。ある記者は、「これまで平たんなコースを選んで世界記録に挑戦してきたが、NYのような起伏の激しいコースを避けて世界トップ選手との競合を嫌ってきた。起伏の激しいコースを走れないランナーだ。」などと、あたかもハイレの実力を過小評価するような言葉を並べた。そして、ハイレがそれらの尋問に誘導されるように「もう走るのを止めるかも...。」と口走ると、記者から畳み込むように「止めるのか?」の質問。それに「Yes」と返答してしまったのが真相のようだ。 9月19日、ハイレは難コースで有名な「グレートノーザンラン」のハーフマラソンで優勝。NYシティ・マラソンのディレクターらは、3度もエチオピアに足を運び誠意を見せた。それに報いるため、ハイレは社長としての日常的な実務を完全に休業。2か月前から練習だけに集中してきた。ハイレの調子は悪くなかった。トレッドミルで10000m27分48秒を記録。マラソンであれば2時間4分台の仕上がりだったと言う。右ひざ上の筋肉(関節ではない)を故障したにも関わらず、無理を承知で出場した裏には、故障後のレースには幸運が付いて回るというこれまでの「ジンクス」を期待した楽観的な心理が働いたのではなかろうか。しかし、今回のハイレは運に見放された。 ハイレは、帰国後に短文投稿サイトのツイッタ―に「走ることはわたしの血の中にあり、競技を続けることを決めた。」と書き、引退撤回を表明した。ヨス・ヘルメンスは「東京マラソンには出場する。ひざは重傷ではなく、1週間もすれば練習を再開ができるだろう」と来日する見通しを明らかにした。また、ハイレは「ロンドン五輪まで現役選手を続けるだろう。ロンドン五輪に出場できれば、長距離選手として史上初の5大会連続出場になる。大会出場事態が素晴らしい記録であり、もしメダル獲得できれば夢が現実になる。ワルディ・マモ、ミリュース・イフターらの先駆者たちが、40歳以上になっても現役を続行できた事実から、大好きな走ることを続けたいと思う。あと数年で40歳になるし、マスター世界記録の可能性もあるからね」と結んだ。 駒野欽一元エチオピア大使とハイレ。 元エチオピア兼ジブチ大使(06−10年)、現イラン駒野欽一大使(63歳)とハイレは、マラソンが取り持つ縁で異色の交際が始まった。天皇誕生日には、大使公邸にハイレを含む各界の名士を招待するのが日本大使館の慣習になっている。筆者もハイレを通じ、ハイレ宅のパーティーで大使と接する機会を持った。駒野大使は、エチオピア勤務4年を終えて9月26日にアディスアベバを発ち、10月17日から3度目のテヘラン大使に着任したペルシャ語の専門家だ。ハイレ引退からの一連の騒動に、「ハイレのNYでの突然の引退宣言を日本の新聞で読んで驚きましたが、引退を撤回して2月に東京で走ることになって本当に良かった。ハイレらしいですね。」とメールを頂いた。 メールは続いて、「離任の1週間ほど前、イスラエル大使の公邸で私の送別夕食会があり、ハイレ夫妻も出席してくれました。そこで私が、自分はエチオピア南部で使われていた木の枕を集めていることを話しました。日本でも江戸時代までは武士のみならず、国民すべてが髪型を壊さないために同じような木の枕を使っていたからです。そして、『ハイレ・リゾート』の各部屋に、その木の枕の写真の額が掲げられていることに非常に驚くとともに感激しました。ついては、集めたエチオピアの木の枕を描いた自身のデッサン帳を記念に差し上げたいと言ったところ、公邸に挨拶に来るというので半信半疑にしていましたが、離任の前日に夫人と2人で来られたというわけです。私のデッサンはホテルの部屋に掲げるというわけではないでしょうが、気持ち良く受け取ってくれました。世界チャンピオンとのこうした出会いは最高の思い出となり、テヘランの公邸では真っ先に彼との写真を飾ったというわけです。なにしろ、ハイレはアディスアベバでわたしを初めて訪ねてくれたエチオピア人、最後に逢ったエチオピア人でもあります。」とハイレとのエピソードを明かしてくれた。 アベベ・ビキラの登場以来、マラソンを通じて日本とエチオピアの関係は深い。ハイレもまた、1992年12月15日の千葉駅伝を走り800ドルという大金を受け取った際、「オレはプロになれる!」と自信をくれた国、それが日本だと後年語っている。来年2月27日の東京マラソンについては、「日本はマラソンの伝統国。エチオピア代表、世界記録保持者としても下手な走りはできない。ひざは全く問題ないのでしっかり調整して最高の走りを見せたい。」と、電話の向こうで語ってくれた。 |
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