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ケニア五輪マラソン選考で繰り広げられる『マラソン革命』〜男子代表候補6人を密着取材〜」

大ブレークの年

昨年、世界のマラソン界には、ケニア選手による衝撃的かつ急速な進歩がもたらされた。なかでも、ケニアの6選手、エマニュエル・ムタイ(27歳、PB:2時間04分40秒)、ジョフレイ・ムタイ(30歳、PB:2時間03分02秒)、モーゼズ・モソップ(27歳、PB:2時間03分06秒)、アベル・キルイ(29歳、PB:2時間05分04秒)、パトリック・マカウ(27歳、PB:2時間03分38秒)、ウィルソン・キプサング(29歳、PB:2時間03秒42秒)が、ライバルのエチオピア勢を大きく離して主要レースでことごとく優勝。ケニアランナーの驚くべき潜在能力の高さと強さで想像を超えた進歩を遂げたのは記憶に新しい。そのかれらが今春再び、五輪代表権をかけて各地のレースで昨季以上の激戦を繰り広げるだろう。ロンドン五輪もケニア3選手を中心にレース展開され、上位独占も十分にあり得ることだろう。誰が飛び出すだろうか、沿道が熱くなる。いずれにしてもあの故サミュエル・ワンジルを超えるようなレース展開になるだろうか。秋は五輪代表争いから外れた3選手といきの良い若手ランナーの追い上げが勇気ある積極的なレース展開を推し進め、2分台から1分台へ突入しても不思議ではない勢いとなるだろう。モソップは「おれの場合、もし気象条件が悪くタイムがでなければ五輪代表になれない。その時は秋のベルリンで世界記録に挑戦する、』と言った。これはほかのランナーにも該当するモチベーションだろう。

五輪選考から外れた鬱憤をタイムで晴らすため、世界新記録に執着するのだ。史上最強の精鋭ランナーと五輪イヤーが絡んだケミカルから生まれる「タイム」はどこまで伸びるのだろうか。

ケニアのマラソン五輪選考は、予想以上の好タイムの連続で選考が難しくうれしい悲鳴を上げている。このため選考条件そのものが一転、二転して、前述の6候補選手選考に留まり、最終的に今春のレース結果によって選手選考が決定すると発表されているが、これも定かではなく、さらに6選手を合宿に呼んで最終選考はこの合宿で最も調子の良い選手を選んで、締め切り直前に決定するとの説もある。世界選手権に優勝したキルイは決定している、世界新記録を樹立したマカウが決まったとか、あたかも根拠がありそうな噂が広がっているが、いずれも事実無根であろう。そんな状況の中で、モソップはすでに昨秋、世界新記録、2分台突入を目指してロッテルダムへの出場を決定。2分台の世界新記録で一挙に五輪代表権獲得を狙っている。それ以外にかれの代表入りは難しいだろう。ロッテルダムと同じ日に開催されるパリは、若手ランナーの登竜門。それだけに若手が勇気を持って参加し争われるレースだ。パリ市主催から国内最大の日刊新聞紙、「レキップ」と呼ばれるスポーツ紙傘下に代わって久しいが、ロンドンのように出場料、賞金、ボーナスなど出費に渋るので大物選手獲得に興味はない。これと対照的なのはロンドンだ。世界一の資金力を持つロンドンは、E.ムタイ、マカウ、キプサング、キルイらが一堂に集結。女子選手もケニアの五輪代表3選手が出場予定で、レースはあたかも五輪前哨戦の様相だ。もちろん、このケニア4選手のタイムと順位によって五輪代表1,2人が決まる可能性もあるだろうが、ここでも順位、タイムは当日の天候に大きく左右されるだろう。モソップのロッテルダム高速コースの結果次第で、代表候補選手4名のサバイバル戦略も変わるだろうか。昨年のロンドンはベルリン世界選手権、ロンドン、NY,ロンドンと立て続けに2位だったエマニュエル・ムタイが、大方の予想を裏切って大ブレークを遂げて、2時間04分40秒のコース新記録で優勝。マカウ、ツエガイ・ケベデらを破って久々の主要レースでの優勝を遂げた。しかし、今回は五輪代表をかけて代表候補選手4名が出場して優勝争いを繰り広げる。代表決定条件は、優勝と世界記録に近い好タイムの両方となるだろう。これまでロンドンでは再三世界新記録挑戦が試みられた。2002年のハリッド・ハヌーチ(アメリカ)以来の史上2度目の男子世界新記録なるか。ケニア勢の奮起から目が離せない。少なくても代表選手1名が決まるだろう。

ロンドンの翌日、ボストンが開催される。昨年、非公式な片道コース、高低差が136m以上、時速15,6qの追い風の好条件に恵まれたとはいえ、極めて難関コースのボストンでジョフレイ・ムタイが2時間03分02秒で大ブレーク。コース記録2分49秒も短縮したムタイの実力は、まさかの仰天記録だった。2位の初マラソンのモーゼズ・モソップも2時間03分の06秒の衝撃的なコース新記録で世界をアッと言わせた。いろんな状況が複雑に絡んで、予測不可能な空前のタイムが生まれたわけだが、まぎれもなく人類最速マラソン記録であることは明瞭だ。この記録は非公認だが、このだれも予測できなかった高速レースこそ、世界のマラソンをワンランク上に押し上げるきっかけとなった。

衝撃的記録の余韻が残るテグ世界選手権で、幸運にも補欠選手から代表の座を獲得ししたアベル・キルイが高温多湿の悪条件下で2時間07分38秒、2位以下に2分以上の大差をつけて2連覇を果たした。キルイは「タイトルレースになるとなぜか燃える」とこれまで主要レースでの優勝経験もなく、自己記録も2009年ロッテルダムで3位になった時の2時間05分04秒と、今回の代表候補の中で最も遅いが世界選手権2連覇を達成。五輪優勝に自信満々だ。

初秋のベルリンで、パトリック・マカウがいきなり世界記録保持者のハイレと真っ向からクラッシュして圧勝。2時間3分38秒の公認世界記録を樹立。ケニア勢悲願のマラソン世界記録をハイレ・ゲブレセラシエ(エチオピア、38歳)からケニア選手の手に奪い返した。マカウは「ケ悲願だった世界記録を再びケニアの手に奪い返した意義は大きい。」と大喜び。「記録はまだまだ伸びる。ケニア選手が2分台に突入するのは時間の問題だろう」とケニア勢の怒涛の快進撃を宣言した。その2週間後、ウィルソン・キプサングがフランクフルトで、世界新記録ペースで走っていたと気づかずあわよくば世界新記録という2時間03分42秒で優勝。キプサングも「記録は次のチャンスがある」と笑い飛ばしたが、ハイレの記録が次々と破られた。

シカゴではモーゼズ・モソップが故障で練習不足ながら2時間05分37秒、あの故サミュエル・ワンジルのコース記録を破り優勝。続くNYでのジェフレイ・ムタイのレースは圧巻だった。同僚の活躍で刺激され、相乗効果を得てか、33qを過ぎてから独走。後半にめっぽう強く、一瞬にしてE.ムタイ、T.ケベデ(エチオピア、24歳)、G.ゲブレマリアム(エチオピア、26歳)を抜き去り2時間05分05秒のコース新記録で圧勝。これまでの記録を2分49秒も短縮した。これら一連のケニア勢の破竹の勢いの活躍、無敗を誇る強さで昨シーズンは終了した。

ケニア陸連は世界選手権優勝者を自動的に五輪代表に決めると発表したものの、昨秋のベルリンでパトリック・マカウが2時間03分38秒の世界新記録を樹立すると、トーンが変わってきた。前述のムタイ、モソップ、キルイ、マカウと昨秋のフランクフルトで2時間03分42秒、世界記録にわずか4秒と迫る好記録で2連覇したウィルソン・キプサングと、五輪、世界選手権より優勝が困難と言われるロンドンにおいて2時間04分40秒のコース新記録で優勝したエマニュエル・ムタイを加えての豪華メンバーを1月発表した。これらの代表候補選手6名は、パトリック・マカウだけが「サブトライブ」(従属、マイナー部族)と呼ばれるカンバ族出身で、ほかの5人はカレンジン族と呼ばれる国内3大都市のひとつであるウガンダ国境近くの西部エルドレット市近辺最大の部族出身だ。

我々は一般に「ケニア人」と総称するが、これは対外的な呼び方でこの根拠はかつて英国の植民地政策によって区別、統括されたものがそのまま独立して国境となったためである。しかし、ケニア国内ではケニア人である前に重要なことはかれらがどの部族、またはマイナー、少数民族に属しているかだ。例えば、ケニア最大の部族はキクユ族と呼ばれる。かれらの下に、言語、文化など、伝統的に非常に密接な良好関係を持ち依存関係を続ける少数部族がある。しかし、キクユとカレンジン族は、伝統的に対立関係にあるので、2008年に政治的な違いで起きた争いで両部族が殺戮を繰り広げ、一触即発の危機に陥る場合が起きた。もちろん、このような関係はケニアだけではなくアフリカ全体の部族対立の問題である。例えば、日本に複数のケニア留学生が来る場合、同じ高校に同じ部族の学生を送り込むことはできるが、対立部族のキクユとカレンジンが同校に在籍することはまずありえない。日本に留学生を送るナイロビ在の日本人、またはかつての留学生がケニアに帰国して同様な仕事、日本に留学生を送るケースも、その点は十分にわきまえてトラブル改修に事前に手を打っている。ダグラス・ワキウリ、サミュエル・ワンジルなどの例をとっても、ナイロビ近郊かワンジル出身地のニャフルルなど、ケニアの東部出身の日本留学生が圧倒的に多い背景に、前述のコネクションと複雑な事情があるからだ。このような理由で、日本に入ってくるケニアランナーの情報の多くは、ケニアの東部情報と思ってほぼ間違いはない。ケニアランナーの伝統は、ケニア史上最強の中・長距離選手と呼ばれる、現ケニア五輪会長キプ・ケイノの出身地で知られるエルドレットが中心地だ。ここから八方に拡大された半径50kmの地域にキャンプ地が散在している。イテン、茶畑で有名なナンディの丘、カプサベット、カプサガットなど、ケニア西部地方の、地球の割れ目と呼ばれる「リフトヴァレー州」の一角が最も重要な「ランナー」練習拠点だ。日本でよく言われる『ケニア情報』は間違っているとは言わないが、ケニア全体を網羅しているものではない。また、「情報、情報」と情報集めに躍起になっても、その情報そのものを判断する下地がなければ情報が生かされないことは明白だ。

日本の男子マラソンが世界から大きく後退して久しい。現状では世界トップ選手と日本選手のギャップがあまりにも大き過ぎて比較対象にもならない。しかし、なんとも歯切れが悪く甘い見方だが、東京マラソンを見ながらまったく悲観する状況でもないとも思った。なんらかの改革案を早急に見つけて、勇気ある改革を実行すれば日本男子マラソンは再び復活できると思う。ひとつは日本国内に10000m28分台のランナーが130名余の数存在する実情の活かし方である。日本が世界に誇る土壌、駅伝、マラソンの伝統は継承されている。この伝統と環境の中で、素材がマラソンに十分生かされず、安易に駅伝に流れているのもまぎれもない事実であろう。駅伝志向が強く、ますますその傾向が続く状況で、ほとんどの長距離ランナーが無意識にきついマラソンを回避。手頃な駅伝へという志向があるのは仕方ないが、指導者の確固たる方向性が最も重要であろう。ある監督がこう嘆いた。「箱根駅伝で活躍した選手を実業団に入れると、まずマラソン転向に意識、洗脳するのに少なくとも数年かかるが、大半は成功せずに消えてしまう。時間の無駄です。」と。

方向性に「ブレ」があってはならない。非常に難しい仕事だが、現状をいろんな角度から検証、最良の形で生かす切り口、モチベーションを与えることによって、少しでも世界とのギャップを短縮できる可能性の糸口を掴めるのではないかと思う。マラソンは「才能が50%、メンタルが50%のスポーツだ」といった、80年代ウェールズ出身の世界記録保持者の言葉を思い出した。藤原新(東京陸協)は孤高のランナーだ。藤原のケースは、大企業に丸抱えの食うに困らないサラリーマンランナーの安定した生活と対極のポジションで走る強さがある。その走りがかれを支えて東京マラソンの快走ができたのだろう。

今回2度のケニア取材でケニア五輪マラソン代表候補6選手をケニア中・長距離高所トレーニングの「メッカ」、エルドレット、イテン町、首都ナイロビの南20qのンゴングで取材することができた。また、キルイ、キプサング、E.ムタイ、女子五輪代表選手のフローレンス・キプラガトらのコーチで、ケニア、エチオピアの中・長距離、マラソン選手に強い影響力を及ぼすレナト・カノヴァ(イタリア、67歳)・コーチを現地で取材した。これほど国際的なケニア選手の活躍があっても、専門知識のある学歴、指導力、経済力などの諸問題で、外国コーチに匹敵する現地のコーチが全く育っていない。バルセロナ五輪3000m障害の銀メダリスト、パトリック・サンガが若手選手の面倒を見ているがコーチではない。大半の主要キャンプは外国資本で経営され、外国人コーチのプログラムで練習するのが実情だ。中にはG.ムタイのように完全に独自の練習で育ってきたランナーも存在するがこのような例は稀であろう。

 
(2012年月刊陸上競技4月号掲載)
(望月次朗)

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