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Close-up 男子400mH ニコラス・ベット

北京世界選手権で大番狂わせ
大躍進で「金メダル」に輝いたヨンパーの新星
意外な種目でケニア旋風<cムティも5位入賞
ベットの双子の兄弟は準決勝進出

 

昨年の北京世界選手権における男子400mハードルは,ワイルドカードを持った選手を含む4名が出場する米国勢の争いと見られ,「あわよくば上位を独占するだろう」との予想もあった。ところが,優勝候補に挙がった全米選手権1位,2位のバーショーン・ジャクソンとジョニー・ダッチが予選,準決勝で相次いで敗退する大波乱。残ったのは五輪,世界選手権,ダイヤモンドリーグなどで実績を持つマイケル・ティンズリー,カーロン・クレメントの2人だった。両者は準決勝を着順通過でクリアしたものの,それぞれ総合6番目,7番目のタイムだった。
 一方,予選から勢いがあったのはケニア,ロシア,バハマ,トルコなど,これまでシニアの主要大会でほとんど実績のないフレッシュな顔触れだ。23歳のデニス・クドリャフツェフ(ロシア)が自己新を連発。準決勝は48秒23のトップタイムを叩き出した。ただし,総合8番目のニコラス・ベット(ケニア,当時25歳)でも48秒54であり,誰が勝ってもおかしくない紙一重の僅差だ。
 準決勝を総合2番目のタイムで通過したボニフェース・ツムティ(23歳)を含めてケニア勢は2人が決勝へ。この種目で同国の選手が決勝に進出するのは1993年シュツットガルト世界選手権(E.ケター5位,B.キンヨ8位)以来22年ぶりのこと。また,約1年前にキューバからトルコへ国籍を変えた28歳のヤスマ二・コぺリュ・エスコバルや急成長の21歳,パトリク・ドベク(ポーランド)ら異色な文化背景を持つ選手たちが決勝のスタートラインに立った。
 レース序盤からエネルギッシュに飛び出したのは,6レーンのクドリャフツェフ。右隣レーンで先行する大柄なジェフェリー・ギブソン(バハマ)を追う。クドリャフツェフは9台目のハードルを越えてもトップだったが,残り50mでスピードダウン。この時点で米国の2人はすでにメダル争い圏外へ後退。9レーンのベットが猛烈に追い上げ,10台目のハードル手前で先頭に立つと,そのまま真っ先にフィニッシュラインを駆け抜けて歓喜の雄たけびを上げた。優勝タイムは47秒79。シーズン世界最高で,22年間破られなかったケニア記録(48秒24=E.ケター)も更新。この種目でケニア初のメダルが「金」となり,世界をあっと驚かせた。練習仲間のツムティも5位に食い込んだ。
 なお,ベットの双子の兄弟,ハーロン・コエチも同じ400mハードルに出場しており,予選5組で日本の松下祐樹(チームミズノ)に次いで5着(49秒38=自己新)で通過。準決勝は2組で7着(49秒54)にとどまって敗退した。
 中長距離選手のキャピタル≠ニ呼ばれる,ケニア西部のエルドレット市。このエルドレット郊外の北にイテン,南西にカプサベット,その他周辺の小さな村に「キャンプ」(合宿地)が点在する。ここは1960年代に中長距離で大活躍した先駆者のキプチョゲ・ケイノ(1968年メキシコ五輪1500m,1972年ミュンヘン五輪3000mSC王者)をはじめ,五輪,世界選手権のメダリスト,世界記録樹立者,世界の主要大会で活躍した名ランナーが集中している地域。ケニアが世界に誇る走る文化≠フ発祥の地だ。天性のDNAに託し,赤土大地の上で鍛えて「夢」を求めるのだ。
 世界選手権で獲得したメダル数は100個以上とか。これらは男女中長距離,マラソンによって獲得された数だ。ベットの優勝は,ケニア選手が800mより短い距離で初めて栄冠を手にした快挙だ。先号で紹介した男子やり投のジュリアス・イェゴは,同国フィールド種目初の優勝者。2人の活躍で,中長距離以外の種目でもケニア選手の可能性が広がったのは興味深い。

中長距離,マラソン以外の種目は国内では惨めなもの

――ケニア選手で初めて,中長距離種目以外で世界選手権に優勝。国内の反応は大変だったでしょう。
ベット とんでもない!ケニアでは400mハードルで優勝しても,中長距離種目とかマラソンの実績と比べると,それほど注目されることなどない。また,北京でケニア選手が金7,銀6,銅3のメダルを獲得し,2位のジャマイカ,3位の米国を抑えて「メダルテーブル」トップ。我々も驚く史上最高の成績を上げたので,なおさら目立たなかった。
――それでも,世界チャンピオンになればスポンサーがつくとか?
ベット そんなことは間違ってもあり得ない(苦笑)。
――しかし,ケニア選手の中長距離の走る能力は,世界中の人が認めている。400mハードルやフィールド種目に枠を広げて世界と戦えることを証明した意義は大きいでしょう。
ベット 我々の活躍が国内の若い世代になんらかのインパクトを与えたと思いたい。ケニア人はいろんな種目に適する能力を持っているだろうが,素質を伸ばすため環境整備が必要。ケニア中長距離選手は,走るところはどこにでもあり,長い伝統に支えられた蓄積があるが,他の種目ではなかなか難しい。
――若い人に刺激を与えたでしょう。
ベット そうなればいいが……,目の前に立ちはだかる障害は大きい。僕自身の経験では中長距離,マラソン以外の種目は,国内ではまったくマイナー。例えば,モスクワ世界選手権があった2013年は,参加標準記録(B標準=49秒60)に迫る49秒70を出しても,代表選考委員会では「どうせ400mハードルは大した期待はできないので……」というような評価をされ,代表候補にも入れてもらえなかった悔しい経験がある。陸連内部に,中長距離以外の種目は世界で通用しない,といった固定観念が根強いのも良くない。
――ケニアにおいて,練習用のハードルはどうしている?
ベット 練習に使うハードルは,モイ大学のものを借りている。合宿で訪れる南アフリカで使うものと比較するとかなり旧式なものだが,ハードル練習はケニア西部ではここでしかできない。この大学は我々に理解があって,主に中長距離選手が方々からやって来て練習している。
――エルドレットの「ケイノ・スタジアム」が完成したのでは?
ベット とんでもない!西部地方初の全天候トラックのスタジアムと謳っているが,工事半ばで資金がどこかへ蒸発。資金不足で昨年から工事が中断。工事再開の目途がまったく立たないとか。まあ,ケニアではよくあることさ。

バレーボールから陸上競技に転向
110mHを経て400mHへ

――あなたの陸上競技との関わりはいつ頃から?
ベット 僕は一時,バレーボールに夢中になっていたが,父親がかつて走幅跳と400mの選手だったことから,なんとなく陸上競技に興味を持ち始めた。そもそも110mハードルをやり始めたのは,走る種目ではわんさと才能ある選手が多くて競争が激しいから,やる人の少ない,勝てるチャンスのある種目がいいだろう,といった程度の動機からだった。ただし,国内のジュニア選手権で優勝したこともあるが,いくら練習をしても14秒を切れなかった。
――それで400mハードルに転向した?
ベット 早く言えば,110mハードルが僕に適していなかったと思う。なにしろ3年間一生懸命練習をしたが,持久力はあってもスプリント不足。そこで父親の勧めで2009年頃に400mハードルへ転向。短期間で53秒から49秒台にタイムを縮めて急速に伸びていった。この種目は自分に向いていると思ったが,我流の練習で伸び悩み,たちまちここでもある種の壁に当たった。
――警察官になったのは?
ベット 運も良かった。高校を卒業した時,警察の陸上競技クラブに勧誘され,警察学校に通いながら好きな陸上競技が続けられるのが魅力だった。まあ,現実に警察のクラブにでも入らない限り,ケニアで400mハードルを真剣に継続するような経済的な余裕がある選手はいない。

南アフリカのコーチ,フィンランドのマネージャーがサポート

――大きな転換を迎えたきっかけは?
ベット 2012〜13年は故障もあったし,警察学校の訓練などで,好きなように競技活動ができなかった。2014年の英連邦大会(英国・グラスゴー)でメダル獲得の絶好のチャンスが巡ってきたが,51秒21で予選落ち。4×400mリレーは失格と,散々な結果だった。でも,大会中にマネージャーのユカ・ハルコネン(フィンランド),ヘニー・コッツェ・コーチ(南アフリカ/男子400mHで主要大会ファイナル常連である同国のL.J.ファンジルらを育て,現在はサウジアラビア陸連400mHヘッドコーチ)らに声を掛けられ,大会後から指導を受けて競技人生が大きく変わった。
(注:同年のアフリカ選手権は400mHと4×400mリレーの両種目で銅メダルを獲得。
49秒03の自己記録を樹立した)
――コッツェ・コーチから最初に指摘されたことは?
ベット 110mハードルをやっていたお陰でハードリングは注意されなかったが,前半と後半のインターバル歩数はまちまち。3台目のハードルまでは13歩で,残りを14歩,15歩だった。「それでは記録が伸びない。13歩で走る体力,リズムをしっかりとつかむことが重要だ」と指摘された。また,その時点で「努力すれば,北京世界選手権でメダル獲得を目標にできる」と言われた。
――南アフリカで練習したのですか?
ベット いや,2014年の冬季練習は,すべてEメールを通じて指示されたプログラムを消化した。コーチ,マネージャーらとのコンタクト,送られてくる情報,彼らの計画など,すべて新鮮でハングリー精神を奮い立たせ,目標意識をそそるものだった。コーチが勧めるビデオ(YouTube)を観てハードリングのイメージを叩き込み,質問があればEメールで指示を仰ぐなどして順調に練習を消化していった。
――どの選手のビデオが最も参考になりましたか?
ベット コーチは,エドウィン・モーゼス(米国/ 1976,84年五輪優勝。107連勝も遂げたヨンパーの神様=jを史上最高のハードラーとして尊敬。彼のビデオを何度も観ることを勧められた。
――コーチを持つことのメリットは何ですか?
ベット 我流で練習していた時は,ハードラーの長所・短所もわかりにくいことがしばしばあった。世界のトップハードラーを育成した経験豊富な人の指導を受けて,僕や練習仲間の能力が初めて発揮できるようになった。練習の意義,技術的なことから,調整,レースの作戦,分析,心理的なことまで含む,総合的なバックアップをしてくれるのがコーチだ。
――2015年は,ナイロビでの世界選手権選考会で自己記録を49秒03から48秒29へ一気に短縮。北京でどの程度戦えるかの予測ができましたか?
ベット タイムはある程度の自信にはなったが……,実際に世界選手権の経験はないわけだから,予想なんて無理さ。6月に初めてマネージャーのハルコネンがフィンランドでの合宿練習に呼んでくれて,コッツェ・コーチのアシスタントのヴィンセント・キールから徹底的に指導を受けた。この合宿や,サボー・ゲームス(49秒39で1位)などの試合で経験を積んだことが後日,ケニアの世界選手権選考会,北京での世界選手権本番の成功に結びついていると思う。選考会では決勝レースのインターバルをすべて13歩で行くのに少し躊躇したが,思い切って13歩で走ったので自己新記録につながった。念願の48秒台に突入し,大変にうれしかった。

練習仲間3人で五輪ファイナルへ

――今回の取材ではハーロン・コエチ(双子の兄弟),ボニフェース・ツムティと一緒の写真撮影をして,話も聞きたかったが……。
ベット 我々3人は1つのチーム,友人同士でお互いに助け合い,一緒に練習,レースにも出場する。今日は他の2人の都合が悪くて来られなかった。リオでは北京のように我々3人がケニア代表に選考され,3人とも決勝進出することが夢だ。
――3人で表彰台に上がる?
ベット (笑いながら)そうなってほしいが,そんな甘いもんじゃない。
(注:五輪の400mHでケニア勢は過去に誰も入賞していない)
――コーチは北京の決勝レースを見て,「ほぼ完璧な400mハードルのレースを見れて最高な気分だった。あたかも美しいコンサートを鑑賞しているようだった」と言っていたが……。
ベット (笑顔で)理想的なレースができたと思う。準決勝では,4台目と7台目のハードルでバランスを崩すミスを犯した。だから決勝はスタートから300mまで思い切って飛ばし,最後の100mで勝負できると考えていた。持久力は負けない自信を持っているので,ホームストレートでのラスト勝負は望むところ。9台目のハードルを越えて,「このまま行けば勝てそうだ」と思った。
――リオ五輪優勝に向けて,今季,何が必要ですか?
ベット 今季はもちろん五輪優勝がターゲットだが,信頼するコーチの下でベストを尽くしたい。また,今年は800mにも挑戦したい。昨年,フィンランドで初めて800mレースに出場。楽しく走って1分49秒31で優勝したことがある。コーチ,マネージャーらは800mで1分43秒で走る力を持っていると言ってくれたので,どこかのレースにテストケースで出場するかもしれない。
――シーズンが楽しみです。ケニアの新しい分野,スプリント,フィールド種目でのパイオニアとしてがんばってください。

 

 

 
●Text & Photos / Jiro Mochizuki(Agence SHOT)
(月刊陸上競技2016年3月号掲載)

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