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ロンドン・マラソン控えるティルネシュ・ディババが絶好調

ラドクリフの世界記録更新に意欲満々
「マラソンは難しいが、自分に合っている」

 4月22日に開催されるロンドン・マラソンの女子は、4人の男子ペースメーカーを付けてポーラ・ラドクリフ(英国)の持つ2時間15分25秒の世界記録(2003年/男女混合レース)にチャレンジする。
 このレースに、36歳のメアリー・ケイタニー(ケニア)がいち早く参加表明をした。彼女は不思議とタイトルに縁が薄いロード専門ランナーだが、ハーフマラソン元世界記録保持者であり、前回のロンドンでは05年にラドクリフが樹立した女性単独レース世界最高(2時間17分42秒)を上回る2時間17分01秒(歴代2位、歴代パフォーマンス2位)を樹立。今回は世界新に向けて意欲を燃やしている。
 一方、トラックで五輪3冠(08年北京5000m・10000m、12年ロンドン10000m)、世界選手権5冠(03年5000m、05年5000m・10000m、07年10000m、13年10000m)、世界クロカン4冠も含めて史上最強女子長距離ランナーと呼ばれる32歳のティルネシュ・ディババ(エチオピア)も前回に続いてロンドン・マラソンへの参加を決め、ケイタニーと争うことが世界記録挑戦への絶好のチャンスだと考えている。
 2月中旬にエチオピアの首都・エディスアベバを訪れた際、ティルネシュに話を聞くと、「昨年のロンドンは、マラソンの経験不足による自信のない走りだった。ケイタニーのハイペースにかきまわされ、不安になってペースダウン。後半、無理して前を行くケイタニーを追って故障もするなど、自分のレースができず失敗だった。しかし、3回目のマラソンとなった10 月のシカゴに向けては、練習も十分できて調子が良かった。自分のレースをほぼ完璧に作って優勝できたことは大きな自信になった。だから、今年のロンドンは昨年とまったく違うアプローチでレースができると思う。ハジは優れたコーチ。彼のプログラムを完璧に消化し、気象状況が良ければ世界記録を更新できるでしょう」と言って自信を見せていた。
 彼女は昨年のロンドン世界選手権(10000m2位)を最後にトラックに区切りをつけ、本格的にマラソンへ転向した。
 その前に出場したマラソンデビュー戦の2014年のロンドンは2時間20分35秒(3位)。昨年のロンドンは2時間17分56秒(世界歴代3位)でケイタニーに続いて2位。3戦目のシカゴは2時間18分31秒で独走し、マラソン初優勝を果たした。
「マラソンはトラックよりはるかに難しいけど、3戦目でようやくレース感覚、メンタル調整などをうまくつかめてきたと思う。意外と私はマラソンに適しているようです」と笑顔で話し、マラソンランナーとしての自覚、自信を深めてきたようだ。



名将・ハジの下で
本格的にマラソン練習

 ティルネシュ・ディババのコーチであるハジ・アディロ・ロバは元マラソンランナーだが、自己ベスト2時間12分台の平凡な選手。今やエチオピア陸連会長であるレジェンド<nイレ・ゲブルセラシェと幼なじみだ。2015年の北京世界選手権女子マラソンで優勝したマレ・ディババ(28歳)を育てた手腕は高く評価されている。
 マラソンに転向したティルネシュは、ためらいなくハジの門を叩いた。「マラソンに転向する以前からハジのアドバイス、指導をいろんなかたちで受けてきた。彼は素晴らしいコーチだ」と絶対的な信頼を置く。
 ロンドン五輪のマラソン女王、ティキ・ゲラナ(30歳)は家庭内のトラブルで離婚するなど一時は引退を考えたほど落ち込んだが、復活を目指してハジの下で練習を開始した。
 ハジはレバノン系アメリカ人のフサイン・マケ(エリート・スポーツ・マネージメント・インターナショナル社)の会社の専属コーチ。今年の東京マラソンの女子で2位になったルティ・アガ(24歳)もハジが育てたランナーだ。


アディスアベバ郊外で
週1回のロード走

 午前5時半、コーチのハジから指示されたアディスアベバ市内のある地点に向かった。もちろん外は真っ暗だ。滞在先の友人宅は森を背にした山の中腹にある。電話で簡単にタクシーを呼べる国ではない。ある夜、友人と帰宅した時、道路上に2匹のハイエナを目撃した。それから真っ暗な夜道のひとり歩きは不気味で怖い。坂下の道路まで人に送ってもらった。
 ティルネシュらの「ロード練習」は、アディスアベバから東方へ約25q進んだところにある「センダファ」と呼ばれる標高2700mの高地で行われる。この村の外れに巨大な1本のユーカリの木が立っている。この巨木の下が昔から選手の集合場所で、「ロード練習」のスタート&フィニッシュ地点だ。
 日曜日は交通量が少ない。地元のクラブ、外国マネージャー門下に所属しているグループも多い。これらのグループは小型バスで選手を市内と練習コースまで送迎する。トップ選手は自家用車で友達と一緒にやって来る。この日は少なくとも30台以上の自家用車と、大型バス、ミニバスが数台駐車場に止まった。ティルネシュは、弟が運転する大きな四輪駆動車でやって来た。彼は練習中に給水ボトルを姉に渡すなどのサポートもする。総勢150名以上のランナーが集まっただろうか。グループごとに走り出す。この中にヒマラヤ高原北部のチベットからやって来た若手ランナー男女15名がおり、3ヵ月間、アディスアベバで合宿中とか。男子ランナーがティルネシュのグループに入って走っていたが、次第に後方に落ちていった。
 この朝、ハジの女子グループは男子2名のペースメーカーを先頭に、週1回アスファルト道路を走る「20q走」だった。3月24日にスペインのバレンシアで開催される世界ハーフマラソン選手権のエチオピア代表2選手も含まれていると、車の運転席からハジの説明があった。ハジの隣には給水係の若い男が乗り込み、ハジは前後の車に注意しながらハンドルを巧みに操り、大声でタイムを知らせる。ランニングフォーム、腕振りなどについて各選手に指示を出す。車を止めて給水係の男が車外に出て走りながら選手にボトルを渡すなどあっという間に20q走は終わった。ハジにタイムを聞くと、「標高2700mの高地で、無理をせずにこの時期、1時間7分台で走れているのは悪くはないだろう!」と満足そうだった。



「順調に調整し、気象状況が良ければ、疑いなく世界記録を破るだろう」

 練習後、ハジにティルネシュの世界新記録挑戦プランについて聞いた。
――ティルネシュの指導はいつ頃から始め、そのきっかけは何だったのか?
ハジ マラソンだけではない。かれこれ7、8年前、トラックを走っていた頃からいろんなかたちで彼女から要請されてアドバイスをしてきた。
――ティルネシュの世界新樹立の可能性は?
ハジ はっきり言うが、ティルネシュが順調に調整し、当日の気象状況が良ければ、疑いなく世界記録を破るだろう。彼女とポーラ・ラドクリフのトラックキャリア、実績を比較すると、その差は歴然。ティルネシュは史上最高のランナーだ。
 昨年のロンドンは、ティルネシュにとってまだ2度目のマラソンで、経験不足だったため、ケイタニーが(1qごとを)サブ3分ペースに上げた時点でパニック。ついて行かなければならない状況だったのに、怖さから消極的な走りになってペースダウン。ケイタニーの先行を許して負けてしまったが、2時間17分56秒の好記録だった。あれはレース経験からくる初歩的なミスだ。しかし、3度目のマラソンだったシカゴは完璧に自分のレースを作り、中盤から独走。2位に2分近くの大差をつけて完勝した。あのレースでティルネシュは大きな自信を持った。
 マラソンの難しさは経験しなければわからないが、もし、順調に調整ができてティルネシュが世界新記録を樹立できなければ、それは大きな失望です。
――マレ・ディババも世界新記録に挑戦か?
ハジ その予定さ。



エチオピア合宿中のファラー、旧知のランナーとの再会

 4月22日に開催されるロンドン・マラソンは、今年も世界トップクラスの男女実力ランナーが勢ぞろい。名実ともに「世界最高」のレースになるだろう。男子は3度目の優勝を狙うエリウド・キプチョゲ(ケニア、33歳)に地元の英雄、英国長距離史上最強ランナーのモハメド・ファラー(3月で35歳)が挑戦。4年ぶり2回目のファラーのマラソンが大いに注目されるが、この両者の戦いにエチオピアの長距離王者、ケネニサ・ベケレ(35歳)も加わる超豪華版だ。

■ファラーはソマリア出身の仲間と練習
 エチオピアに滞在中、トレーニングのためにこの地を訪れていたファラーを追った。アディスアベバから車で約40分の山の向こうに「スルタ」と呼ばれる村がある。数々の栄光に輝いたトラックを昨シーズン限りで卒業≠オ、マラソンへ転向したファラーは、これを機に指導者を代え、女子マラソン世界記録保持者のポーラ・ラドクリフの夫でコーチだったゲイリー・ラーフに師事。本格的なマラソン進出前の練習場所としてエチオピアを選び、4月のボストン・マラソンに出場予定で、ファラーと同じ東アフリカのソマリア出身であるアブディ・アブディラーマン(米国)をはじめ、ソマリアの友人3人を含む計6人のグループで、「ヤヤ・ヴィラージ」と呼ばれるハイレの経営するホテルにチベット、イスラエル、フランス人らと同宿している。
 ファラー・グループ関係者に「練習を見たい」と伝えると、山道を40q走って到着した先の村に来るように指示されたが、アディスアベバ在住の男の説明が不十分だったのか、紙に書かれた地名で待てども会えずホテルに帰ってきた。次の日、ファラー・グループが昼前にサッカーで身体を動かした後、渋々、ワンカットだけ写真を撮らせてくれた。



■ベケレ 競技人生懸けてロンドン参戦
 ケネニサ・ベケレと彼の新事務所で再会した。キプチョゲ、ウィルソン・キプサング(ケニア、3月で36歳)との三つ巴の対決≠ェ話題になった昨年9月のベルリン・マラソンは、調子が上がらず30km付近で途中棄権。ベケレは「ロンドンでしっかり記録、結果を出さなければ先がない」と言って、選手生命を懸ける、またはなんらかの苦境に立たされているのか、背水の陣≠ニいった状況だ。いつになく緊張していた。
 彼の自宅は道路拡張予定エリアで、強制立ち退き命令を受けているという。自宅の市場価格は9700万円だったが、国からの保証金額がわずか1100万円とか。「政府に楯突けない」と嘆いていた。

■アドラはロンドンで2度目の42.195km
 昨秋のベルリンで終盤まで優勝したキプチョゲと争い、2位ながら初マラソン世界最高記録(2時間3分46秒=歴代7位)を叩き出したグイェ・アドラ(27歳)も、ロンドン・マラソンへの準備を着々と進めており、「2回目のフルマラソン。しっかり準備して、
悔いのないレースをしたい。目標はトップ3だが、レースの流れを読んで走りたい」と物静かに話していた。
■34歳デファー 東京五輪が集大成
 女子5000mの元世界記録保持者で、五輪(04年アテネ、12年ロンドン)と世界選手権(07年大阪、13年モスクワ)で計4つの金メダルに輝いているメセレト・デファー(34歳)が、自宅の近所にできたイタリア人夫妻経営のレストランに招待してくれ、夫の
テディ、娘のガブリエラらと一緒に昼食を取った。
 デファーは「出産後、減量のために走り出して故障。今春は調整不足で初マラソンを走れないが、秋にはぜひ走りたい。できれば、2020年の東京五輪はマラソンで出場したい。マラソンで優勝し、競技人生の有終の美≠飾りたい」と話していた。

■復帰間近のゲラナ
 ロンドン五輪女子マラソンで優勝したティキ・ゲラナ(30歳)は「長いスランプから脱出して、ようやく走れるようになった。秋には完全復帰できると思う」と、笑顔に走れる喜びがあふれていた。
■ケベデ 将来の生活プラン充実
 北京五輪男子マラソン3位、ロンドン、福岡で連勝、シカゴでも優勝するなど大活躍した小柄なツェガエ・ケベデ(31歳)を覚えている人が多いと思う。ハイレ宅の近くの高級住宅地に、数年前から大きな4階建ての屋内プール付き邸宅を建て始めたが、工事半ばで一向に終わりそうもない。よくある資金切れ≠ゥと心配したが、センダファで取材中にばったりと鉢合わせ。彼の誘いで新居まで同行。2年ぶりに旧交を温めた。
 平均敷地が1000平米の大きな邸宅が数百戸立ち並ぶエリアでも大きめな新居を、2ヵ月前に現金5000万円で購入したとか。1階は大きな応接間、こんな大きなオープンキッチンが必要か、と首をかしげる大きなスペースがダイニングルームで、2階は5つの寝室、2つのトイレ、シャワー室がある。持ち家5件を貸し出しする不動産業をしているとか。将来の生活プランは健全のようだ。
■メゼゲブ 米国留学から帰国
 2000年のシドニー五輪10000mで3位になったアセファ・メゼゲブ(39歳)が、4年間のアメリカ留学を終えて帰国した。「スポーツマネージメント」を勉強したとか。しかし、その仕事はエチオピア国内では難しく、しばらくの間、コーチとして食いつなぐそうだ。
■アヤナ 来季に向けて英気養う
 リオ五輪10000mを23年ぶり世界新記録で制し、昨年のロンドン世界選手権も10000mで優勝した長距離新女王のアルマズ・アヤナ(26歳)。「今季は2レースぐらい出場するが、来年に向けて英気を養う。(11月の)ニューデリー・ハーフ(1時間7分12秒で
優勝)は思ったより簡単だった。東京五輪は史上初の10000mとマラソンの2冠を狙う」と夫のフィダが話した。
 ティルネシュ・ディババ、デファー、ゲラナ、ヴィヴィアン・チェルイヨット(ケニア)らも東京五輪のマラソンをキャリアの集大成とする意向で、優勝争いは空前絶後の激しいものになるだろう


エチオピアに異変
環境悪化 & 政情不安

「文明よ、おごるなかれ!」


 ここ10数年のアディスアベバ市内は、強力な中国政府のアフリカ諸国近代化促進政策により、それまで大きく立ち遅れていたインフラ投資を多発的に手掛けて驚異的な変貌を遂げた。中国は採算が取れないような案件にも投資し、その巨大なお金に動かされてしまう国は多い。中国が圧倒的な経済力を酷使して後進国で権利を拡大している。
 例えば、アディスアベバ郊外のセンダファあたりは、10年前ならまだまだ家畜がゆっくり道路上をのし歩き、車の数も非常に少ないのどかな農村風景があった。しかし、近年はすっかり交通事情が悪化。巨大な中国製のダンプカー、大型トラックが我がもの顔で道路を独占。排気ガス、埃ほこりを上げて高速で走るので、歩行者、家畜、ランナーにとっては危険極まりない環境になってしまった。得るものも多いだろうが、尊いものを失うことも確かだ。
 エチオピア陸連会長のハイレは政府に練習専用の道路建設を嘆願したが、「資金がない」と一蹴されたと嘆いたが、別の場所に練習環境を見つけるか、練習専用トラックなどを設置する以外、この悪い環境で練習を継続することは無理だろう。 なお、ハイレ会長は、陸連改革に大ナタを振るった。50数名のナショナルコーチ制度を廃止し、全員をクビにした。この決断は理事から猛反対を食らったそうだが、仕事がなくても毎月自動的に給料を払っていた悪い風習にたまりかねていた。また、エチオピア選手が中国で簡単にドーピングができる環境を恐れ、陸連の許可なくして中国のレースへの出場禁止令を発表した。


「国家非常事態宣言」の発令

 2月半ば、友人の運転する車でエチオピア南部1300qを2日間半で動き回った。アルバミンチ市にハイレが建設中のホテルを半日見学。チェチュエメナ市のホテルに1泊。次の早朝、20q離れたハワサ市のハーフマラソンに数時間参加。レース後、首都・アディスアベバまで280qを走った。
 長らく雨が降らず、村や町の水道が干上がったとか。ある村では黄色い大きなプラスチック製のウォータータンクを持った人が長い行列を作って水をもらう順番を辛抱強く待っている姿を道路脇に見た。干ばつはかなり日常生活に大きな影響を与えていそうだ。
 エチオピア政府が「国家非常事態宣言」を発令。国内最大の部族であるオロモ族の若者らがデモを組織的に先導し、政府攻撃を繰り返してきた。国中の主要道路は兵士が封鎖し、デモ隊と対峙する不穏な情勢が続いた。たちまちソーシャルメディア、インターネットの接続が人為的に悪化。兵士が発砲してデモの人が殺されたとか。都市を結ぶ交通が完全に遮断され、人や物品の動きも止まったらしいが、アディスアベバでは非常事態が実感できなかった。
 ほぼ同じ時期、2ヵ月間に亘る長期のコプト派のオーソドックス・キリスト教の「断食」(肉類など食べ物は限定される)が始まった。数日後、政府はオロモ族のデモの要求に応えて投獄されたデモ隊の指導者らを解放した。そして、首相が辞任した。封鎖された道路はすべて開放。やっと険悪な情勢から少しは明るい方向に向かった。ただ、わずか数日の封鎖だったが、ガソリンスタンドは長蛇の列。フランスの友人から「大丈夫か?」とメールが届いた。しかし、2週間経っても新首相は発表されなかった。新首相の選考が難航している。

 

 
(月刊陸上競技2018年4月号掲載)
●Text & Photos / Jiro Mochizuki(Agence SHOT)

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