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望月次朗のエチオピア紀行
恒例のアフリカ取材ツアー
発展途上のエチオピアに思うこと

世界有数の最貧国の現状

 毎年11月後半になると、アディスアベバを訪れるのが恒例の仕事だ。と言うのも、2000年にハイレ・ゲブルセラシェ(エチオピア/同国陸連元会長)がまだ現役の頃に立ち上げた「Great Ethiopian Run」、略して「GER」と呼ばれるアフリカ大陸最大の10kmロードレースを、若い現地のカメラマンらと一緒に撮影することを任されているからだ。
 2018年は、彼が経営する韓国メーカーの小型車組み立て工場が完成した。そこで生産された車を男女の優勝者に贈呈して、国内外のトップランナーの興味、意欲を高揚させてレベルアップを考えたが、車贈呈はなんらかの判断で中止された。だが、賞金をこれまでより倍増して10万ブル(約40万円)以上になった。この賞金額の効果は大きく、五輪メダリストらを含む、多くのトップランナーが参加するなど、例年になく好レースとなった。近い将来、男女優勝者に新車1台が副賞として与えられることになるだろう。
 世界的に見れば、エチオピアは今でも最貧国の1つなのだろうが、少なくとも近年の首都アディスアベバの発展ぶりは目を見張るばかりだ。1980年代半ば、アディスアベバに1968年メキシコ五輪男子マラソンで優勝したマモ・ワルディ(エチオピア)を取材するために来たことがある。当時を知る者にとって、現在のアディスアベバの変わりようは到底想像ができないほどだ。
 当時の市内はほとんど車もなく、最も有名な「メスケル広場」を目をつぶって横切っても何も起こらなかっただろう。今、そんな自殺にも等しい無謀なことをする者はいない。どこの道路でも、横切るには細心の注意が必要なことは言うまでもない。
 飛行場から乗ったタクシーでは、メスケル広場までの田舎道はあまりにも無数の大きな穴、デコボコ道で真っすぐに進めず、穴を避けてジグザグにゆっくり走った、とんでもない経験をしたことがある。また、17〜18年前、デラルツ・ツル、ケネニサ・ベケレ、ティルネシュ&ゲンゼベ・ディババ姉妹らの出身地・ベコジ村を訪れた時、舗装された道路を離れてからわずかに50kmに満たない田舎道で巻き起こる猛烈な砂埃を浴びながら車にしがみつき、腸ねん転を起こしそうに揺れに揺られてやっとのことでたどり着いたことがある。ベケレは「今じゃあ、車で30分だよ!」と笑って言うが……彼もこの悪路は恐怖だったろう。

 中国はエチオピアに軍事援助を提供、環状道路、高速道路など、エチオピア全体の道路の7割以上を建設したとか。風力・水力発電、工業団地、アディスアベバの市電、ルネッサンスダム、新国立競技場、約750kmにわたるジブチ−アディスアベバ間の鉄道、国際空港などの近代化や通信網の整備など、立ち遅れていたさまざまなインフラ整備に中国は関わっており、エチオピアは「アフリカの中国」と呼ばれることもある。
 アディスアベバの郊外には巨大な敷地に中国人団地ができている。多くの大型プロジェクトは中国の融資と見られている。2018年の国の責務額は国内総生産の59%にも及んでいるとか。2018年2月、アビー・アハメド首相が就任した新政府は、より多くの中国企業の国内進出と、対中国の債務軽減を模索しているが、借金返済で極度の外貨不足になっているのが現状だ。
 エチオピアはアフリカ大陸で唯一植民地化されていない国で、シバ女王の時代からエチオピアが存在していると誇っているが、長い歴史に独自な文明文化を築いてきた。新たに就任したアハメド首相は、オーソドックスとムスリムの両親の家庭に生まれ、名前がムスリムだが信仰はオーソドックスとか。中近東諸国では絶対に許可されない異宗教同士の結婚が、エチオピアでは珍しくもない。異教徒同士がお互いに尊敬する寛容性の土壌が存在する珍しい国だ。
 その首相だけに、エリトリアとの関係改善に向けた対話路線を表明。7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアのアハメド首相とエリトリアのイサイアス・アフォルキ大統領が首脳会談を行い、エリトリアは1961年から30年間にわたってエチオピアからの独立闘争を繰り広げたが、戦争状態を終結することで共同宣言に署名した。
 一方、エチオピア国内の事実上の一党支配が続いてきた政治形態の改革、複数政党による民主制の実現を目指すと表明。新首相就任以来、政治犯を釈放したり、弾圧や不正が指摘され、改革を矢継ぎ早に実行している。そのためか、これまでにない明るく開放的なムードに包まれていると言ってもいいだろう。

ハイレの自伝を子供たちに
 これまでになく硬い話を書いたが、実はエチオピア滞在がわずか2週間の短期間にいろんなことが起きた。2日目には世界中を驚かせた、ハイレのエチオピア陸連会長の突然の辞任記者会見を彼の社長室で開いた。彼は誰にも相談せず、独断で判断し、「陸連のためだ」と言って辞任した。前号P89に経緯の詳細に触れたのでここでは省くが、GER開催の週は、外国からのテレビ取材、ランナーのグループらが頻繁にハイレを表敬訪問する。ビル最上階の社長室を訪れては、一緒に写真を撮って喜んで帰って行く。訪問者を手際よくさばくのがハイレのアシスタント、アビユだ。

 エチオピアに来る数ヵ月前から、アビユと頻繁にコンタクトを取り、小生が出版した『HAILE GEBRSELASSIE, Emperor ofLong Distance』を数千冊、イタリアからジブチ経由でアディスアベバに輸送した際は、大変に世話になった。エチオピア国内でまだ電気も届かない辺境の田舎の学校、陸上競技クラブの子供たちに、ハイレの自伝とも言うべき彼のキャリアすべてを収めたこの本を届けるのが小生の希望だ。この本は、そのようなかたちで生かすのが最善の方法ではないかとハイレと話した。この本がなんらかのかたちで子供たちが走ることに興味を覚え、刺激にでもなれば幸いだと思っている。
 昨秋のアムステルダム・マラソンのレース後、不世出の史上最強クロカン、トラックランナー、ケネニサ・ベケレ家族5人を夕食に招待、旧交を温めた。史上最強の三拍子そろったクロカン、トラック、ロードのティルネシュ・ディババらのネタ、写真も十分にある。まだ頭の中での大まかなプランだが、彼らの本も出版できないだろうかと思案中だ。



GERからトップランナーの追跡へ
 GER2日前の金曜日に、恒例の記者会見がヒルトンホテルで行われた。ゲストの元ハーフマラソン世界記録保持者のゼルセナイ・タデッセ(エリトリア)、2012年ロンドン五輪、13年モスクワ世界選手権マラソン優勝者のスティーヴン・キプロティチ(ウガンダ)らが出席。タデッセは、エチオピアとエリトリアとの外交樹立が成立後、初めてのスポーツ交流の一環としてエリトリアから招待を受けた。彼は多くのメディアからインタビューを受けて驚きを隠せなかったが、まさかの大歓迎で終始笑顔だった。聞くところによると、北部のティグレ州出身のゲブレ・ゲブレマリアム(2009年世界クロカン優勝、現・エチオピア陸連理事)とタデッセは、現役時代はライバル。言語がほぼ同じということで親密だった。
 翌日の子供のロードレースは、「スポーツアカデミー」のキャンパス内の短いレースを楽しんだ。3500名の子供たちと同伴者の父兄はやはり相当な混雑を生む。毎年のことながら、5歳ぐらいの子供たちが真剣な表情でスタートラインに立ち、号砲とともに負けん気を発揮して数百mを全力で完走する。
 日曜日の10kmは国内最大のスポーツの祭典だ。高いビルの上にスタートの撮影ポジションを決めた。4万5000人が一斉にスタートすると、地鳴りを起こしてビルが揺れるような感覚になる。スタートから3kmは下り坂、最後の3kmはかなり急な上り坂だ。ここを走るのはきつい!
 レースが終わって、すぐにホテルに戻って写真を編集。国際陸連(IAAF)サイトに写真を数枚送れば、その日の主な仕事は終了。急いで荷物をまとめてホテルをチェックアウト。ハイレ宅に戻る。庭園にテントを張って開かれる、招待客、レース関係者、スポンサー、外国からのランナーらを交えたパーティーに参加。近年、別の場所でこのパーティーを行ってきたが、やはり多くの人からハイレ宅の庭で行うパーティーのリクエストが多かったため、そのリクエストに応えたとか。宴たけなわ、ハイレ、ゲブレマリアム、タデッセらが踊りまくって大いに盛り上がった。
 残りの1週間、両膝の手術後、ようやくリハビリを始めたアルマズ・アヤナ宅を訪れた。そして、ダイヤモンドリーグ・ブリュッセル大会5000mで世界歴代4位の12分43秒02をマークし、「東京五輪5000mで金メダルを狙う。それまではガールフレンドは不要だ」と決意を語るサレマン・バレガの練習を取材した。バレガは軍に所属しているため、基地の中のトラックでの朝練習だった。
 リオ五輪男子マラソンのゴール直前、頭上で両腕を交差。オロミヤ州の人たちが不当な扱いを受けているとエチオピア政府に抗議して時の人になったフェイサ・リレサの朝練習に2回付き合った。彼が米国に亡命して2年が経過。米国の生活、なぜ帰国を決意したかなどの近況を聞いた。リレサは1月のドバイ・マラソンに出場予定だ。2012年のシカゴで出した2時間4分52秒の自己新記録更新、できればサブ4分を達成したいそうだ。

 
(月刊陸上競技2019年2月号掲載)
●Text & Photos / Jiro Mochizuki(Agence SHOT)

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