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夢の「9m」に最も近い男 
ドーハ&東京は完成≠ヨの序章
ファン・ミゲル・エチェバリア(Juan Miguel Echvarria)男子走幅跳/キューバ

 今年の世界の陸上界は、これまでになく新世代≠ノ大きな希望がふくらむ、エキサイティングなシーズンになるだろう。
男子では、国際陸連(IAAF)ダイヤモンドリーグ(DL)上海大会の100mで、ともに9秒86(+0.9)で1、2位を占めた21歳のノア・ライルズ(米国)と23歳のクリスチャン・コールマン(同)。特にライルズの終盤の加速はウサイン・ボルト級≠セった。今季からプロ転向した日系のマイケル・ノーマン(米国、21歳)は、4月に400mで世界歴代4位タイの43秒45を記録した逸材だ。中長距離ではフィリップ、ヤコブ・インゲブリグトセン兄弟(ノルウェー)、ヨミフ・ケジェルチャ(21歳)、セレモン・バレガ(23歳)らのエチオピア勢、ローネックス・キプルト(ケニア、19歳)らは稀に見る素質の持ち主だ。
棒高跳のアルマンド・デュプランティス(スウェーデン、19歳)は、昨年の欧州選手権を屋外世界歴代2位タイの6m05で優勝。今年も5月に6m00をクリアしている。
 女子も逸材ぞろい。短距離では英国の名門大学、キングス・カレッジ・ロンドンで歴史学を
学んだ23歳のディナ・アッシャー・スミス(英国)が、昨年10秒85、21秒89の同国新記録を樹立。16歳でリオ五輪400mハードルに出場したシドニー・マクラフリン(米国、19歳)、
走高跳で圧倒的強さを誇るマリヤ・ラシツケネ(ロシア、26歳)に、昨年のユース五輪で優勝したヤロスラフ・マフチフ(ウクライナ、17歳)がどこまで肉薄するだろうか。
 彼ら新世代の先鋒の1人が、男子走幅跳のファン・ミゲル・エチェバリア(キューバ、20歳)だ。彼の助走スピード、ダイナミックに宙を駆けるジャンプに世界中のファンが魅せられる。
16歳だった2015年に同国の首都・ハバナで8m05を跳び、史上最年少で8mジャンパーの仲間入り。昨年は世界室内選手権に初出場ながら8m46で優勝。2017年ロンドン世界選手権王者のルヴォ・マニョンガ(南アフリカ)を2cm差で抑え、一躍世界トップに名乗りを上げた。
20歳にして「9m」の大台に最も近い存在。カリブの若きジャンパーを追った。


世界を驚かせた19 歳での「8m 83w」
 ファン・ミゲル・エチェバリア(キューバ)が世界を驚かせたシーンがある。
2018年6月10日、DLストックホルムで見せたあわや砂場から跳び出しそうな大ジャンプだ。
記録は8m83。追い風2.1mでわずかながら参考記録となったが、1995年7月に同国の英雄であるイワン・ペドロソがスペインの高地・セストリエールで8m96の幻の世界記録=i追い風1.2mながら風速計の前に人が立っていて風をさえぎった疑いで非公認)をマークして以来、
あらゆる気象条件下でもっとも遠くに跳ぶ快挙だった。
 エチェバリアは「1週間前のDLローマが8m53で2位だったので、ストックホルムでも8m50ぐらいを目標にしていたけど、8m83なんてまったく夢にも思わない記録で、正直言って僕自身が一番驚いた。どのような気象条件下でも8m83は、めったに出る記録ではない歴史的な快挙だ。大きな自信になる」と興奮気味。指導するダニエル・オソリオ・コーチ(46歳、元三段跳選手/自己ベスト17m02)も、「どんな記録も出せる潜在能力があるが、現実に8m83の記録には驚いた!」と率直な心境を吐露した。
 その後も快進撃が続き、3日後にはチェコ・オストラヴァで8m66(+1.0)、6月30日にはドイツのバート・ランゲンザッツァで8m68(+1.7)と世界歴代10位の記録を連発し、ストックホルムのジャンプがフロックではないことを証明。エチェバリアは、2018年シーズンは10戦して8勝を飾った。
 男子走幅跳の現世界記録は、1991年東京世界選手権でマイク・パウエル(米国)が、同胞の宿敵カール・ルイスとの激闘の末に、樹立した8m95が手つかずに残されている。そのパウエルをして、こう言わしめる。「 エチェバリアの成長には非常に強い印象を持っていて、彼の動向に注目している。エチェバリアが私の記録を破る瞬間を目撃するのは少し怖い気もするが……、怖いもの見たさの楽しみもある。彼はこれまで見たジャンパーの中で最も世界記録を破る可能性を持つ男だ。なかなかいいヤツだよ。とにかく、世界記録に挑戦するポジティブな姿勢が好きだ。彼のジャンプスタイルが大好きだ。身長は190cm近くあり、助走スピード、踏み切り数歩前から踏み切りの瞬間までの動きがまだ粗いが、彼の年齢からすれば致し方ないと思う。ポテンシャルは高く、空中動作のテクニックは相当に完成されている。ジャンプする時は上体を立て、その状態をキープしながら手を高く上げ続けることが大切だ。彼は基本的で、重要なポイントを知っている。彼がそのポジションに入った時、腕が振られて前に出る。フォームが崩れることはない。そのテクニックを彼はすでに熟知している。夢の9m<Wャンプを実現できる素質は十分にある」
 現在の男子走幅跳は、2016年リオ五輪金メダリストのジェフ・ヘンダーソン(米国/自己ベスト8m52)、17年ロンドン世界選手権優勝者のルヴォ・マニョンガ(南アフリカ、28歳)が健在だが、エチェバリアに近い世代にミリティアディス・テントグルー(ギリシャ、21歳)、
タジャイ・ゲイル(ジャマイカ、22歳)、トビアス・モントラー(スウェーデン、23歳)、
マイケル・マッソ(キューバ、20歳)らが、ハイレベルでしのぎを削る。
日本の橋岡優輝(日大、20歳)が4月のアジア選手権で出した8m22(+0.5)は、5月30日のDLストックホルム終了時点でモントラーらと並んで今季世界4位だが、シーズンの深まりとともに、記録は飛躍的に伸びていくだろう。

あり余る才能とメンタルの課題
 これまでのエチェバリアのキャリアを簡単に追ってみよう。出身地は、キューバの首都ハバナの南東約550kmにあるキューバ島内の交通の要所、カマグエイ州の州都カマグエイ市だ。
小さな時からスポーツ好きで、体力があり余ったエネルギッシュな子供だったとか。
 アーネスト・ルカス小学校に通っていた7歳の時から、陸上競技をはじめとしたスポーツに熱中。12歳の頃に陸上競技クラブで走幅跳、三段跳を始めたが、三段跳は好きではなかった。
クラブのトーマス・ヘルナンデス、イヴァン・イザギュイレ両コーチから陸上競技の楽しさを教えられ、非凡な運動能力でナショナルチームに加入。しかし、試合に集中することができず、失敗するケースがしばしば起きた。
 その後、ナショナルコーチのファン・グアルゼルト・ナポレス氏の指導下で、本格的な英才教育が始まった。16歳だった15年5月15日、ハバナ市で開催された競技会で初めて8mを5cm超えた。2ヵ月後、コロンビアのカリ市で開催されたU18世界選手権に出場したが、ここで試合への集中力を欠いて7m69にとどまり、4位に終わった。翌年、ポーランド・ビドゴシチで開かれたU20世界選手権に、リオ五輪代表権を懸けて出場したが、7m78で5位と振るわなかった。
 エチェバリアは、「踏み切り足を故障して約2ヵ月練習できなくて、U20世界選手権は絶不調だった。その後約1年は、足の故障を回復させるために休養したんだ」と言う。同胞のマッソが8m00で優勝。当時・八王子高(東京)3年だった橋岡は7m31で10位だった。
 17年7月14日、スペイン・マドリードで8m28、2日後にイタリアのパドーヴァで追い風参考ながら8m34(+2.3)と復活したかに思われたが、8月上旬のロンドン世界選手権は予選落ちに終わった。
 この年、エチェバリアは母親のルチアナを失った。ただ、そのショックは、アスリートとして大きな転機をもたらした。「 母親は僕にとって、この世で最も大切な人だった。朝練習が嫌いで、早起きできなくて遅れそうな時、そこにはいつも母親がいて、出かけるのを手伝ってくれた。母親が去ってはじめて、尊い母の存在、愛情を認識することができた。かけがえのない人を失ってしまったショックは大きかった。しかし、今、母親が僕の成長を見て少しは喜んでくれていると思う。母を失ったが、僕がこれまで以上に精神的に大人になったことは確かだ」

オソリオ・コーチとの出会いで開花
 エチェバリアにとって、転機はもう1つある。2017年9月から、新しいナショナルコーチにオソリオ氏が任命されたことだ。オソリオ・コーチは、「エチェバリアは、私がこれまでコーチしたアスリートで、最も優秀な素質を持っている。助走のスピード、踏み切り前から踏み切りの瞬間のテクニックを磨くことはもちろんのこと、試合中に極度にナーバスになる彼のメンタルの安定を図るためにコミュニケーションが大切なことを時間を割いて説き、バックアップしてきた。彼はまだ若過ぎるのか、大人になる前の成長過程にある問題なのか、彼自身が心理的な問題を理解するのはまだ難しい。彼はまだ若い。プレッシャーをかけないで、焦ることなく、試合経験を積んで自信をつけていくことが、彼にとって最も大事ではないかと思う」と、その指導方針を明かす。
 その成果は前述の通り。2018年は世界のトップジャンパーの仲間入りを果たし、今年の3月10日には、キューバ選手権で非公認(追い風3.3m)ながら8m92を跳んだ(ただし実測の疑いあり)。オソリオ・コーチは、DLストックホルムで昨年からここまでの指導と、今季の展望についてこう語ってくれた。
「 こうして欧州遠征に来る時は、ドイツのシュツットガルトを拠点として練習。転戦先に向かっている。私はコーチ兼トレーナーであり、ある時は友達、ある時は父親の役目を果たしている。私は、あらゆることで完璧≠追及している。彼はとてつもなく優秀な素材だ。身長も高く、天性のスピード、強靭でパワフルな肉体の持ち主だ。動きをさらに磨き、筋力、ストレレングスを鍛え上げ、完璧なイメージを作り上げ、肉体をシンクロナイゼーション(同調化)
させることが私の仕事だ。
 今シーズンは、秋にドーハ世界選手権が控えている。もちろんエチェバリアも挑戦するが、それ以前にやるべきことがまだまだたくさんある。最初にテクニック習得が最も重要なことだ。試合の結果、順位を最初に考えるより、まず走幅跳のエレメント(要素)ごとのテクニックの分析に注意を払うことが大切だ。結果は最後に考えればいい。
 エチェバリアもペドロソを尊敬している。彼はキューバのスポーツ界の英雄だ。私は彼とは非常に良い関係で、兄弟のような付き合いをしている。彼からも多くのアドバイスをもらっているよ」
 昨年のDLストックホルム以降、エチェバリアの周辺が騒がしくなった。スポンサーも付き、国内外のメディア、大会主催者、世界中のファンからの期待は日ごとに増す。だが、夏に21歳となるエチェバリアは10代の頃とは違う。「 オソリオ・コーチに指導を受け始めてから、短期間で急速にジャンプが伸びてきた。これまでの僕は落ち着かない性格で、メンタル・コントロールに問題があった。試合中にジャンプに集中できなかったが、母親を亡くしたことをきっかけに、人生が変わった。もちろん、オソリオ・コーチの存在も大きく影響している。アスリートは、多くの人たちの好意、支持によって成長するものだ。世界レベルのアスリートは、彼ら自身の努力もあるだろうけど、彼らの素晴らしいパーフォーマンス、業績は1人の力で築き上げられるものではない。世界記録を樹立する人は、常に特別なパーソナリティを持つ人だ。僕も多くの人を魅了し、強烈なインパクトを与え、尊敬される、そんな選手になりたい。
 僕はまだ若いので、いろんなことにチャレンジしたい。世界室内選手権の優勝はすでに達成したが、ドーハ世界選手権、22歳で迎える東京五輪は大きな目標だ。9mの大台を目指して世界新記録も達成したい。僕は勝つことの厳しさを知っていて、常に勝てるとは限らないこともわかっている。勝つために最大限の努力、周到な準備が必要だが、時には競争相手が強かったり、いろんな偶発的なことが試合中に起きることもある。だから、今の僕は勝敗そのものより、より良いジャンプを心がけ、純粋にジャンプを楽しみたいんだ」
 アスリートとしてはまだまだ発展途上。だが、その段階ですら世界をアッと驚かせてきたエチェバリア。ドーハ、東京での跳躍は、さらなる大飛躍≠ヨの一歩に過ぎないのだろう。

 
(月刊陸上競技2019年7月号掲載)
●Text & Photos / Jiro mochizuki(Agence SHOT)

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