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ブライアン・ツモル・クレイ
日系ハワイアンのディカスリート、混血パワー躍進の年

10種競技は陸上競技の花形種目のひとつである。優勝者は欧米で「King of Athlete」と称えられる。スピード、ジャンプ、パワーの3拍子揃った選手が、スペシャリスト並みの高い技術を習得しなければならない至難の競技だ。
数年前、大柄な選手の中でひときわスピード、ジャンプ力に優れた小柄な日系アメリカ選手、ブライアン・クレイ(USA、25歳)の動きを目にした。クレイは04年室内世界選手権大会7種目で2位。アメリカ五輪選考会に優勝したものの、アテネ五輪前評判は、ロマン・シェブルレ(チェコ)、トム・パパス(USA)らの陰に隠れて注目度は低かった。ところが、クレイは誰もが予想しなかった優勝争いをシェブロ、ディミートリフ・カルボフ(カザフ)らと劇的に演じた。歴代6位の自己新記録8820点を獲得して2位。一躍、ハワイの英雄、異色のハワイアン日系5世だ。高校生のころ稀有な才能を発揮、留学先のカリフォルニアのアズサ・パシフィック大学で開花した。今季、世界選手権優勝を狙い、近い将来9000点突破に自信を持つ。遠く北京五輪にピタリと焦点をあわせた。

日本人とアフリカ―アメリカ人の血を受け、古典的日本精神を持つ男

ハワイ出身の史上最高のスポーツ選手は、日本で活躍した野球選手、力士ではない。「人魚」と呼ばれたデューク・パオア・カハナモクと言う人らしい。かれの活躍は1912〜32年まで4回の五輪水泳自由形で出場。金3、銀2、銅4個獲得した。水泳引退後、世界にサーフを広め「サーフィンの父」と呼ばれている。クレイのアテネの活躍はカハナモク以来とか。小柄な人が多いハワイでも目立たない。ハワイ歯科協会主催のコンベンションでサイン会に出席。このインタビューは2日間密着取材したものをまとめた。

―ハワイ出身の世界トップクラスの陸上選手は初ですね。
ブライアン・クレイ(以下BC)−そうかもしれない。(笑う)ハワイでは陸上競技、ほかのスポーツでも設備は悪くはないが、コーチが不足していて伝統的な土壌もない。ハワイは、本土と比較すると非常に保護された生活環境だ。ここの生活はゆっくりペース。

―日系10種目選手はちょっと以外です。
BC―多分ね。ぼくの家庭は複雑で変わっているよ。ぼくはオースティン、テキサス生まれ。妻はノルエー・スウェーデン人。7月に子どもが生まれる。母親ミッシェル・美雪は、札幌生まれの4世。軍属の父親グレッグはアフリカ―アメリカ人。5歳の時、父親の転勤でハワイに移動。ぼくが12歳時に両親が離婚。母親が再婚したので継父マイクが育ててくれた。厳格な祖父が近所に住んでいたので、ぼくは家の中では古典的な日本の道徳作法、教育を受け、日本食で育ったハワイアンさ。長男だから特別厳しく育てられた。生まれつき左利きだったが、祖父が字を書くのに左手は絶対に許さない。今でも棒高跳は左だが、跳躍、投げるものは総て右利き。まあ、バランスよくできたが、万事がこの調子で、大いに反発もした。黒人の父親と日本人の母親の混血児。祖父母は仏教、両親はクリスチャン。このミックスがメンタルタフネスを授かり、ここまできた原動力さ!(笑う)

(注:祖父石井積(81歳)の祖先は広島県出身。かれの祖父、父親から受け継いだ明治気質の人。深い日本語知識の持ち主のため、進駐軍陸軍情報局勤務で日本各地の基地で勤務。祖母久仁子(79歳)は沼津市生まれ。祖父母は世界に誇る孫を優しく見つめる。かれの弟はグレッグ・キヨシ(清)・クレイ同じ大学2年生。走り高跳をしているが、かれは弁護士志望の学生で走り高跳選手だ。)

―陸上競技を始めたきっかけは?
BC―88年ソウル五輪のカール・ルイスの活躍に憧れて陸上を始めたが、大学1年生になるまで何が自分に向いているのか、なんの種目が好きなのかも良くわからなかった。高校のときからコーチがあれもこれもやれ!と命令されたからさ。

―なぜ、カリフォルニアの大学なのか?
BC−厳格な家族から逃げて、どこか遠くに行きたかった。ぼくは幼稚園のころから悪童だった。トラブルが多く、退園、退学をなんどか繰り返した。喧嘩ばかりしていたワルさ。勉強は大嫌い!ロクに本も読んだことがない!このころは高校を早く出て、仕事が早く終わるごみ収集清掃員になりたかった。キャッスル高校の時のコーチ、マーティン・ヒーにうまく乗せられ陸上競技をかじりだした。それほど練習した覚えがないが、100m、10秒50,200m、21秒04,110mh、13秒90、走り幅跳、7m46、走り高跳、2m00を記録してハワイ高校新記録を樹立。奨学金を得てアズサ・パシフィック大学に入学。奨学金なしで、大学に行ける金はウチにはなかった。

―選考理由は?
BC―92年バルセロバ五輪で3位のデーヴ・ジョンソンが卒業した大学。知人のクリス・ハフィンの薦めでコーチ、ケヴィン・レイドの指導を受けることになった。小さな家族的な雰囲気が気に入った。ハワイは人種のルツボ、異文化がミックスされた土地で育ったので、カリフォルニア本土で生活を始めるのは難しくはない。ただ、ハワイでは日本の影響が強いが、カリフォルニア文化のギャップには驚いた。話に聞いていたものの、実際に近所で凶暴な犯罪が多発、最初のころは怖かったね。

―大学1年から本格的に10種目を始めたのか?
BC―そうね。始めたばかりで、全米ジュニア選手権10種目で7312得点して優勝。結果が出ると、やる気も起きる。この年パンアメリカジュニア選手権大会10種目7207得点で優勝した。

―エドモントン、パリ世界選手権両大会で途中棄権している?
BC―最大の原因は、やはり力、経験不足で失敗した。エドモントンは全米で8169得点して3位だったが、まだまだ世界と戦える力はなかった。世界選手権初出場で強豪を前にして、完全に上がってしまった。ドボルジャークは世界新記録を出したばかり。100mを彼と一緒に走った後、緊張でなんども吐いた。初日4018点獲得して16位。2日目、3種目目の棒高跳、4.30mを失敗、ノーマークで棄権した。03年は全米でパパスについで8482点を獲得。実力もある程度ついてきた。パリでは密かにメダル獲得を狙っていたが、試合4日前、練習中に足に“ピリッ”ときた。毎日針を打って治療したので痛みが少しは引いてきた。だましだまし競技を続けてきたが、初日最後の400mはとても走れる状態ではなかった。チームドクターストップが掛かり棄権。この時点、4種目で3529得点、3位だった。

―04年、ブタペスト室内世界選手権で2位。五輪メダル獲得が近くなったでしょう?
BC―ベストを尽くせば、結果はおのずから付いてくると思っていた。最後の1000mでシェブルレに32点差で逆転されて2位になったが、世界のトップにグ〜ンと近づいた。この自信は大きかったね。

―昨年、五輪トライアルでパパスを押さえてアメリカ第一人者になった。
BC―でも、多くの人はラッキーぐらいしか思わなかったね。自己記録8484点からUSAトライアルで8660点に伸ばして優勝したが、パリ世界選手権で優勝したパパスが不調のため、ぼくが運良く勝てたぐらいにしか思っていない人が多かった。

―それで、五輪記者会見で、「・・・これで少しはぼくを認めてくれるだろう・・・」と、不満を述べたのか?
BC―(笑う)そうだよ。報道がフェアの扱いを全くしてくれないからさ。五輪では8820点獲得、パパスのベスト記録(8784点)を抜いて文句なし。

―五輪はフィールド種目で自己最高記録、またはそれに近い記録を出したが、これらの種目を重点的に練習したのか?
BC―それはないが、どのように平均して効率よく高い得点を出すか、そのような練習が多かった。ケヴィン・レイドがヘッドコーチ。投擲、棒高跳、短距離、跳躍らの専門種目3コーチとトレーナーがバックアップしてくれる。ぼくはスピード、ジャンプ力、そして小柄だがパワーがあるが、10種目選手の身体作り、技術習得に時間が掛かったのです。

―五輪で快心の種目はなんですか?
BC―自己ベスト69.71mを投げた槍投げでしょう。砲丸投げも良かったし、投擲種目は平均して満足です。

―逆に、悔やまれ大きな失敗はなんですか?
BC―初日最後の400mレース前は、その前の走り高跳が終わってから、わずかに5分間のウオームアップだった。結果は最悪の49秒19!予想より2秒遅い!これは大きい。次は、2日目の最初の競技110mhに失敗、5台目で転倒しそうになって14秒13だった。調子が良かったから、少なくとも13秒台で走る自身があるのでここでも減点。棒高跳も欲を言えば5m越えでしょう。この2種目が最も悔やまれる。

―競技中、最も注意したことはなんですか?
BC―過去の五輪で8700点以上マークしたのは、トムソン、オブライエンだけ。最初の五輪参加なので予想獲得点数を8700点に置いた。競技中は得点を一切追わないし、知りたくもない。知ることによって、力んでフォームを崩すケースが多い。いかに平均的な結果を出すかという練習をしてきたし、メダル獲得をできると読んでいた。

―暑さ、湿気の影響は?
BC―競技中は、大会の最も涼しい2日間だったし、風もあった。屋根が大きいので、われわれには直射日光は当たらなかった。暑さはそれほど気にならなかった。

―パパスの事故をどんなに受け止めたか?
BC―競技中は、自分のことで完璧に集中しなければならない。パパスは非常にいい友達だが、運がなかったね。あれ以上競技を続けるのは無意味だった。競技に事故はつき物。

―最後の3種目を残して、クレイ、シェブルレ、カルポフの3人で激戦だった。
BC−シェブルレが満を辞して棒高跳、特に、得意の槍投げで一挙に差を広げるであろうとはわれわれが予測していたことだから誰も驚かない。逆に、カルポフの弱点の棒高跳、槍投げの如何で誰がメダルにリーチできるかみんなが興味を持っていた。あまりにもぼくとシェブルレ、カルポフの得手不得手が対照的だった。ぼくも槍投げで勝負が付いたと思ったね。あの勝負ところで最高のパーフォーマンスができるのが真の王者だよ。

―最後の1500m前、コーチからの指示は?
BC―コーチは100m16秒ペース、4分40秒を目標に行け!と指示があった。2位になったのは知っていたが、最終種目が終了するまで得点数は知らなかった。

―ディミートリ・カルポフの急成長をどう思うか?
―ディミートリ・カルポフの急成長をどう思うか?

―家族がアテネまで応援にきましたか?
BC−両親は五輪選考会にきたが、アテネには祖父母が現地にきて全種目を観戦、応援してくれた。ウイニングランで第2コーナーにくると、おばあちゃんが大喜びで手を振ってくれた。スタンドから落ちそうになって“ヒヤッ!”としたね。おばあちゃんは嬉し泣きしていた。

―日本の親戚からの反応は?
BC―おばあちゃんの家族からぼくの写真、記事が掲載された雑誌を送ってくれたね。

―日本に行ったことは?
BC―行きたいが、まだ行ったことはない。どこかで10種目の競技会はないですか?

―01年、8169点、から04年、8820点と、順調に記録が伸びてきています。今年は?
BC―最大の理由は、00年大学2年生の時に、神との対話「神の啓示」を得てから、毎年確実に記録を伸ばしてきた。当時は相当な放埓、わがままな勝手な男。現在の妻サラ(04年1月2日結婚、現幼稚園勤務)と、デートの度に喧嘩、別れの連続だった。人を愛することも知らず。ある日、アパートの一室で孤独感に襲われていた時、神と対話ができました。この瞬間、ぼくの人生が大きく変わったのです。あの瞬間がなければ、現在のぼくは到底ありえないでしょう。さて、今年は自己記録を1点伸ばすことです。欲張るより、この方がいい。

―まだ、記録を伸ばせる可能性の種目は?
BC―1500mが後10秒ぐらい短縮、走り幅跳で8.20m、できればこの種目の10種の世界記録を作りたいし、棒高跳で5.30〜40mに伸ばせる。今年で6年目、10種目の習得には時間が掛かる。

―ドゥワイト・フィリップス、アダム・ネルソンらと一緒にハワイでクリニックを開催した目的は?
BC―ぼくがスポーツから得たものを子供達に伝えたい。ブライアン・クレイ財団でスポーツ奨学金などを考えている。

―今季最初の10種目競技会はどこですか?
BC−今年は室内大会に1回出場、最初の屋外大会は、オーストリアのギョツイス。

―世界選手権優勝狙いは?
BC−もちろん、今年最大の目標はヘルシンキでしっかり結果を出すことです。

―優勝を狙うにはなにが必要か?
BC―練習量とかの問題ではなく、練習の質、総ての種目の技術的なチューンアップ、競技を進めるコツなど改良する余地がある。5月にシェブルレらと一緒にウチの大学で合宿する予定。経験豊かな選手から、競技2日間の力の配分など、多くのことを学べることを期待したい。五輪銀メダリスト、子どもが7月に生まれる。いろんな意味で飛躍する年です。期待してください。

(マイクの車に同乗、ホノルル空港にクレイを見送った。バックパックひとつの軽 装。手に聖書を抱えてドア―の向こうに消えた。)

(月刊 陸上競技社05年3月号掲載)

(望月次朗)

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