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イェレナ・イシンバイェワ
ブブカの世界新記録数を越したい。引退は15年先です!

ヴォルゴグラード(61年、旧スターリングラードから改名)市は、第2次大戦における最大の市街戦場だった。1942年6月、ナチドイツ空軍の猛爆撃で侵略が開始された。ほぼ200日間の攻防戦の末、ソ連軍が地獄のような市街戦に耐え抜き反撃を開始、ナチスは包囲され降伏した。98%の建物が破壊され、想像を絶する劣悪な戦場は、ドイツ将校達が「鼠たちの戦争」と呼んだ。ここで50万人以上の犠牲者を出した。それから半世紀以上が経過、ソビエト連邦も崩壊した。焦土化したこの街にはモスクワ、セイント・ピータスブルグのような、観光客を招聘する目玉商品は皆目見当たらない。惨劇を生き抜いて復興した100万都市。広島と姉妹都市を結んでいる。活気に乏しく、泥を被ったような車が埃立てて走る。目抜き通りを外れると、建物、公園、アパート郡は、風雪に荒れたままの状態だ。舗装さていない泥の道。この街から偉大な水泳界のスーパースター、ポポフ、パンクラフトらが生まれた。アテネ五輪陸上競技の女性金メダル「トリオ」ジャンパー、棒高跳のイェリナ・イシンバイェワ(22歳)、走高跳のイェレナ・スレサレンコ(22歳)、優勝が確実された三段跳で3位、走幅跳で念願の優勝を果たした1児の母親、タティアナ・レデベワ(28歳)らの活躍が特筆される。この取材を考え始めたのは、少なくとも1年半以上前だった。新体制とは言え、依然、旧ソ連時代の名残が強く取材許可を得るのに難航した。IAAFの助力でも、やっとイシンバイェワだけの取材が実現したことを記しておく。しかし、予想に反し、ヴォルゴグラード地方体協会長ビクト―・イヴァノフ(63歳)を始め、関係者全員が非常に協力、開放的だった。

体操選手から棒高跳に転向

訪れたのは4月の初め。大陸性の気候のため、乾燥した風が冷たい。雪が降り、朝晩は零下10度にも下がるが日差しは強い。ロシア軍が死守したママイエフの丘(海抜110m)に建立した巨大な「ロシアの母」と呼ばれる立像の足元から、対岸の広大なステップが一望にできる。夏は40度にも上昇、雨が少ない気象条件の厳しい土地だ。市はボルガ川に沿って、西岸に南北に発展している。ママイエフの丘の下に、体育大学、総合スポーツ施設、学生寮がある。その一角に、室内陸上競技場がある。内部は鉄骨が剥き出し。直線が100m取れる。イェレナ・イシンバイェワ(22歳、174cm、65kg)のホームグラウンドだ。練習後、市内のホテルで夕食後、エブゲニ・トロミモフ(63歳)・コーチと一緒に、長いインタビューに付き合ってくれた。その翌日、学校、戦争博物館、ボルガ展望台、建築中のアパートを案内してくれた。これほどの取材協力は初めてのこと。ロシアのスポーツTV局もいた。レポーターはかつての女子三段跳選手でトップクラスのヨランダ・チェン(43歳)。93年、モスクワで14.96mの世界新記録を樹立、室内で15.03を記録した。クルーと一緒に同行した。チェンの祖父は毛沢東時代の外務大臣。父親がモスクワ大学留学中にロシア人と結婚、ヨランダが生まれたという異色の経歴を持つ。膝とかかとの故障で引退を余儀なくされた。彼女のアドヴァイスも良かった。イシンバイェワの英語の会話力も、70%は通訳なしで話した。

―なぜ、体操を始めたのか?いつからどこのクラブで始めたか?
イシンバイェワ―両親(父親カジ、48歳。働くのが好きで配管工を続けているダゲスタン人でイスラム教徒。母親ナタリア、43歳。ロシア人でロシア正教徒。3年前までボイラー主任だったが娘の薦めで主婦業に選念。子供たちはロシア正教徒。)の薦めで、姉インナが5歳(現在、既婚、アエロビックダンスのコーチ)わたしが3歳半の時、家から路面電車で20分先の有名な体操選手を生んだジジンスキー・クラブに行き、テストを受けてパスしたからです。始めた動機は、そもそも両親が体操選手になることを強く薦めたからです。

―体操でなにが得意でしたか?
イシンバイェワ―特に、床、跳馬でしたね。これでも(笑いながら)ヴォルゴグラード地方の大会で優勝したこともありますのよ。

―体操を止めて棒高跳に転向した理由は?
イシンバイェワ―わたしは入学した時から、他の生徒より大きかった。(笑う)15歳の時、アレキサンドラ・トラフィーマ・コーチが「大きな子は体操に不利だ!」と言って、「棒高跳」転向が最適だと薦めてくれました。(トラフィーマ・コーチは転向をこう説明する。「TVで棒高跳を見て、イェレナには体操より棒高跳が最適と直感した。」)

―なぜ、棒高跳を選んだのか?
イシンバイェワ―最初、体操を続けながら、棒高跳の体験練習に参加をしていたのですが、母親が体操と棒高跳練習両方に連れて行く時間がないので、どちらかを選ぶように言われたので棒高跳に決めたのです。

―最初の棒高跳の印象は?
イシンバイェワ―棒高跳の練習を始めたその日から、たちまちに大好きになりました。そりゃあ、体操のほうが女性的、床ではダンスの要素は多いので楽しいですが、棒高跳で空中に放り出される瞬間がとても爽快です。高さの怖さは、平均台などと比較すると全く問題ありません。

―コーチはなんと言って棒高跳を薦めましたか?
イシンバイェワ―エフゲニ・トロフィモフ(63歳)コーチに紹介されて練習参加しました。1997年11月から本格的に棒高跳を始め、3ヵ月後、4.10mを跳べるようになりました。(コーチは「体操選手が棒高跳に転向して成功する秘訣は、空中動作を容易にできる能力、高さに恐怖感がないことだ」と説明した。) コーチに「棒高跳で必ずブブカのように成功する」と言われましたが、わたしはブブカを全く知らなかったので「彼女は誰なの?」って聞いてしまいました。(笑う)

女の熱い空中での先陣争い

―シドニー五輪で4.40mの予選、3回の試技をすべて失敗、記録なしに終わったのは?
イシンバイェワ―18歳の時ですから、全く力不足でしたね。国内五輪選考会で3位だったのでコーチは一緒ではなかったし、自分の力を出せるような状況ではありませんでした。 (注:1位の選手のコーチは自動的に選手と同行できる)

―01年、ジュニア世界新記録を樹立した。
イシンバイェワ―でも、00年よりわずかに1cm記録を伸ばしただけですね。(笑う)思ったより伸びなかった。

―スポーツと学校の両立はどうだったのか?
イシンバイェワ―通常、エリートスポーツ選手は、エリート選手だけが集まる一般教育を受ける学校がある。わたしが行った学校は、1983年に創立されたもので、ヴォルゴグラード市内にある同じような学校でも五輪、世界選手権優勝者が多い、ベストのものです。ここを出てから今度は大学に行き、コーチ、先生の資格が取れます。

―選手はクラブに属しているのか?
イシンバイェワ―エリート選手になると、今度のわたしのように「鉄道部隊」クラブ(CSK)の少尉のランクを与えられる義務があります。ですから、引退すると、この軍隊の年金、陸連からのスポーツ功労の年金を授与できるようなシステムです。

―フェオファノワがドラキラのライバル意識で女子棒高跳の記録が向上した。また、2人のロシア選手のライバル意識で女子棒高跳記録が急激に進歩してきましたね。
イシンバイェワ―スポーツ選手の誰もが負けず嫌いですからね。意地になっても勝ってやろうと努力します。わたしは前の人たちを追い抜く目的意識が強かったと思います。今度は追われる立場ですが、頂点の座は簡単に渡しません。

―どこの試合でブレークしたと思いますか?
イシンバイェワ―03年、ポーランドで開催された欧州U23選手権大会で4.82mの世界新記録を始めて作った時です。それまでは4.50mをコンスタントに跳べたのですが、ステェイシー・ドラギラ(US)、スヴェトラナ・フェオファノワ(ロシア)らが一歩先行、国際大会では勝てませんでしたね。世界新記録は、非常に大きな自信がつきました。でも、勝ったり負けたり。当時は、まだまだ完全に世界一ではありませんでした。

―04年は飛躍の年。室内から世界記録を連発してきた。
イシンバイェワ―もちろん、五輪優勝は格別のものです。五輪優勝を目指して冬季練習から猛練習をしてきました。ウクライナのドネツクで4.83mの2度目の世界新記録を樹立。2週間後、ブタペストで開催された室内世界選手権で4.86mを飛んで優勝。スヴェトラナに勝って、状況が逆転、心理的な優位に立ったと思います。

―アテネ五輪決勝で4、70、75mを1回ずつ失敗して、4.80mのバーが上がり最後の跳躍に掛ける心境はどうでしたか?
イシンバイェワ―これまでのキャリアで最大のピンチでした。2度目に失敗した時、完全にパニック!コーチは「落ち着くんだ!総てが上手く行く。自分を信じるんだ!落ち着いて練習のとおりにすれば跳べる。」と言ってくれましたが、あの時は怖かった。最後のジャンプが成功した時、勝ったと思いましたね。あのジャンプは、両親、妹を始め、わたしを慕ってくれる総ての人々に捧げるものです。

―男子棒高跳選手は、お互いに助け合い仲が良いが、あなた方は殆ど喋らない。
イシンバイェワ―以前、スヴェトラナがこの種目でナンバーワンの時は違った態度でしたが、今は2〜3位に後退してから、わたしへの憎しみが激しくなってきました。スヴェトラナがわたしを憎んでいるのが良くわかります。わたしを憎んでくれたほうがやりやすい。例えば、雑誌に掲載された彼女のコメントなどは、具体的な表現をしていませんが、裏に隠された憎しみの感情を読み取れます。表彰台では、一応の形だけは済ませますが、それ以上なにも言葉を交すことはありません。ステェイシーも、彼女が強かった時は「あなたも今に強くなるよ」なんて言ってくれてかなり寛容な態度でしたが、私が強くなってからは、ふんぞり返って知らん顔です。

女子棒高跳の限界は5.20m前後か?

―試合中、タオルで顔を隠すのは?
イシンバイェワ―それはTVカメラやカメラマンが近寄ってくるからです。集中力が途切れます。

―練習中には5.15mを飛んだとか?
イシンバイェワ―いや、それは間違いですね。03年、ゴムバーで5mを1回だけクリアしたことがありますが・・・、これはあくまで練習中ですよ。

―コーチはあなたのポテンシャルは5.20mと断言しているが・・・
イシンバイェワ―それはキットジョークよ!(笑う)でも、5.15mは跳べる自信がありますが、5.20mはわかりません。

―ブブカの男子世界記録と、ほぼ1mの差があるが・・・女性の棒高跳の限界ですか?
イシンバイェワ―良くわからないが、キットその辺でしょうね。

―あなたのライバルは?
イシンバイェワ―ライヴァル、アイドルはいません!!わたしのライバルはバーだけ。(笑う) 最近、ポーランドの選手の成長がよいし、スティシーだってまだやるでしょう。スヴェトラナの巻き返しなど、今年も棒高跳が面白くなると思いますね。

―もし、あなたがこれまでのように1cmずつバーを上げて行ったら、5.20mに到達するにはあと30回ぐらい世界新記録を作らなければならないが・・・?
イシンバイェワ―ブブカは生涯35回の世界記録を樹立してきたので、わたしは36回(現在まで11回)の世界新記録が目標です。(笑う)棒高跳が大好きですから、今ここでの思いつきですが、少なくとも今後15年間、現役を続けますよ(大笑い)

―エッ!!引退は37歳。
イシンバイェワ―そうですね!(大笑い)そのぐらい故障さえなければ続けたいと思います。

―ボールの種類は何本持ち歩いていますか?
イシンバイェワ―7本のポールで、アメリカ製のもの。最も硬いものは、18.80、19.00、19.20、の順です。

―握りの高さは?
イシンバイェワ―現在は4.45mです。

―5mを越すには、また、5.20mを越すためにはグリップを上げる必要と固いポール使用が必要なのでは?
イシンバイェワ―5mを越すためには、現在のグリップの高さ、技術、スピードで充分でしょうが、5.20mを越す条件のひとつにグリップを4.60mぐらい上げる必要があるでしょうね。もし、固いポールに変えるようならば、そして新しい技術、リズムをマスターすれば5.15ぐらいに挑戦できる条件が整うでしょう。

―あなたの30、60,100mのタイムは?
イシンバイェワ―3秒87、7秒38、12秒05です。走り幅跳は6.10mかな?

―助走の距離と何歩で走りますか?
イシンバイェワ―助走距離は34.20mを16歩で走ります。コーチはスピードがあったほうが良いが、リズムが最も大切だと口煩く言います。

―コーチが作った特別な練習はありますか?
イシンバイェワ―特別だろうと思うのは、ゴムバーを5.70mに掲げて、爪先で触る練習です。これがスムースにできると調子がいいのです。

―日課のスケジュールは?
イシンバイェワ―朝練習が9時から10時まで。朝食が10:10〜10;45、学校が13時まで。昼飯は13:00〜13:45。午後の学校が4時まで。練習が4時から2時間、時には4時間、週6日間です。

―助走に入る前、呪文のようになにか独り言を呟いていますが、一体なにを言っているのですか?
イシンバイェワ―トップシークレット!!コーチにも教えていません。それをここで言うわけにはゆきませんね。

―誰の跳び方に最も影響されましたか?
イシンバイェワ―私たちはイシンバイェワスタイルを確立してきました。ビデオを使ってのテクニックを研究したことは一切ありません。ビデオはありますが、それは姉がわたしの試合を記録してくれるだけで、他の選手は総て消してしまいます。

―多くのロシア選手は結婚しても現役を続けるが、あなたの場合?
イシンバイェワ―わたしの場合は、家庭を持ち、結婚、出産して、現役を続けるのは難しいと思います。妊娠、子どもを生んで、タティアナのようにさらに記録向上した例を知っていますが、出産後、身体の変調がデリケートな棒高跳に影響するのが怖いのです。わたしはソフトだから、キット自分の子どもを溺愛するでしょう。ですから現役では家庭を留守にしがちになる。引退してからでも子どもを産むことは遅くないでしょう。しかし、タティアナ・レデベワは、非常に上手く家庭、選手生活を続けていますね。

―スレセレンコ、レデベワらとの関係は?
イシンバイェワ―スレサレンコは非常にシャイで、あまり喋らないおとなしい性格です。レデベワは陽気でおしゃべりが好きな性格。同じ街から3人五輪優勝者が出るのも珍しいでしょうね。誇りに思います。

―陸上競技以外の趣味は?
イシンバイェワ―24時間陸上競技にドップリ使っています。レーシングコースで車をガンガン高速で飛ばすのが大好き!!わたしって少しスピード狂かも。(笑う) 映画は好きです。最近見た映画はアニメの「氷河時代」、好きな俳優はニコール・キッドマン。

―五輪優勝でなにが大きく変わりましたか?
イシンバイェワ―街を歩くと必ず人から呼びかけられるようになりました。アテネ五輪女性優勝者3人が、プーティン首相に招待されてクレムリン宮殿に行きました。かなりナーバスになりましたね。わたしが代表してお礼を述べました。また、モスクワ2012年招致、ヘルシンキ世界選手権大会のプロモーション役を依頼されました。

―首相はなんて言いましたか?
イシンバイェワ―言葉数少なく、優勝を誉めてくれましたね

―ざっと数えても世界新記録のボ−ナスだけでも相当なもの。年間収入は?
イシンバイェワ―それは秘密!!わたしは金持ちじゃあありません。稼ぐチャンスがあるとき時稼がなくては(笑う)陸上競技は一生できるものではありません。わたしの子どものためにも・・・(笑う)IAAFから世界新記録のたびに5万ドルの賞金が出ます。だから、一度に高く上げるよりは、1cmずつ上げるのです。チャンスがあればなにごともベストを尽くすこと。棒高跳が好きだからできることで、結果はあとから一人でについてくるものよ(笑う)

―モデル、広告などの副収入の仕事はありますか?
イシンバイェワ―ロシア国内で西側のような、企業イメージ、広告にスポーツ選手起用の風潮が伝統的にないので仕事は全くありません。しかし、西側から時計などのオファーが少しありましたが、具体的なまとまりはありません。

―スポンサー契約はアディダスだけですか?
イシンバイェワ―そうですね。他の選手がいくらの契約料金か具体的なことは知りませんが、東側選手のスポンサー料金は西側選手よりかなり低い裁定です。

―金を使っている暇がないのでは?
イシンバイェワ―わたしはショッピングが大好き。ブランドで好きなものは、グッチ、エスカダ、ベルサーチなど,高いですね(笑い)特に、原色の赤などの色が大好き!

―デイトもできない?
イシンバイェワ―ボーイフレンドは同じ年齢の棒高跳選手。イゴールとだけ言っておきましょう。

―なぜ、ロシアの車を買わず、BMWにしたのか?
イシンバイェワ―ロシアの車はBMWと比較すると、そんなに安全ではないでしょう?ロシアの車は故障が多いし、スタイルだってBMWのほうが素敵でしょう(笑う)このBMWは五輪前に購入。運転も最初コーチが少しずつ教えてくれました。もちろん、運転免許はテストを受けて獲得しました。

―アパートの広さ、値段は?
イシンバイェワ―寝室3部屋、居間、トイレが2箇所、ホール、キッチン、小さなパテオら、150平米です。値段はヒミツよ!(通訳の人から「あのアパートを購入できる人は、金持ち階級の人だけ」と説明があった。このフリーの通訳の人は70平米のアパートに住み、1ヵ月の家賃は1700ルーブル、約8400円。数ヵ月後、一挙に、家賃が75%値上がると、物価高を嘆いていた。)

―新築アパートはいつ完成予定ですか?
イシンバイェワ―完成すればの話ですが・・・、5月の始めに入居する予定です。そうしないとシーズンが始まるでしょう。好きな家具調度品を揃える時間がなくなります。

―ロシアの女子選手は強いが、男子選手はそれほど強くない。なぜだと思いますか?
イシンバイェワ―世界どこでも同じでしょう。ロシアの男性は酒好きだし、怠け者が多いですからハード練習に向いていないのでしょう。それに伝統的にロシアの女性は強い(大笑い)

―今年の目標は、屋外世界新記録、5mを越す、世界選手権優勝ですね?
イシンバイェワ―そうありたいですね。今度は世界選手権を勝ちます。

―また、どこかの大会でお会いしましょう。

ビクト―・イヴァノフ(63歳)

元体操選手だったヴォルゴグラード地方スポーツ局局長は、小柄だがガッチリとした体躯。一見、エリート政治局員の印象だが、良く通る声で快活な話し振りだった。「ヴォルゴグラード地方には、スポーツ関係の学校が35箇所、163人の陸上競技専門のコ―チがいる。才能発掘、才能を伸ばす環境、バックアップシステムがなければ若い芽は育たない。施設は充分ではないが、現況で最高の努力をして、このシステムを続けたい。わたしの給料は、公にされていることだし、秘密はない。月給は15000ルーブルだ。トップクラスのコーチはわたしより稼ぐし、選手が稼いだ金は総て選手のもの。コーチと選手の取り決めなどに、スポーツ局が干渉はしない。実力主義が徹底している。」

エブゲニ・トロミモフ(63歳)

現役時代スティールのポールで4.60mの自己記録を持つ。ポール一筋。コーチは忍耐力が大切と説くが、コーチは核心に触れると「秘密だよ!」と言いながらのらりくらりする。
「イシンバイェワに最初に会ったとき、棒高跳の適正は天性のものに見えた。棒高跳は総合的な質素を問われる競技だ。スピード、パワー、アクロバッティックな空中での動作ができなければならない。高さに対する恐怖感を持つ子にはこの競技は難しい。こうしたことから、棒高跳の選手が体操選手から流れてくるケースが多い。しかし、全員が成功するとはいえない。国際的な選手になるには、少しのことで崩れるから、メンタルの強いものがなければだめ。情熱もなければ厳しい練習にも耐えられないだろう。コーチからの要求はたくさんある。昨年、イシンバイェワの急成長の裏には、集中力、猛練習がある。五輪の大舞台で、あの試練をあの年齢でクールに対処、逆転優勝した勇気はたいしたもの。あの精神的な強さは、なかなか教えてできるものじゃあない。天性のものですね。彼女のポテンシャルは、5mを越すのは時間の問題、さらにその先5.20と言っておこう。

(月刊陸上競技社5月号掲載)

(望月次朗)

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