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イシンバイェワ取材記
ヴォルグラードは遠かった

朝、パリの自宅を出たのが11時。ボルグラードのホテルにチェックインしたのが朝の1時だった。所要時間14時間、意外に遠かった。

西欧からロシアに行くには、大陸を横切ることができない。総て、フライトがモスクワ経由になるからだ。

アエロフロートに乗ったのは、いつだったか忘れるほど昔だった。覚えているのは、モスクワ国際空港のトイレが汚く、ドア―が閉まらない。鍵がかけられない。バブシュカがとにかく不親切だった。

モスクワ五輪前、ドイツ建設会社が建設したモスクワの新空港は、それまでの飛行場よりはるかに豪華に見えたが中はクラ〜イ感じで、強面のカラシニコフを手にした兵士が方々に立っていた。

パリからのフライトは、乗客は30人ぐらいと少なかった。サービスも過剰でないことが良い。JALのように欧州便は、国電並に煩い過剰サービスで日本、英、フランス語など3カ国で親切丁寧のつもりだろうが、機内は騒音公害そのものだ。

また、笑顔を作ればイイってものでもないし、いつもニコニコしていられるのも気持が悪い。要するに、人工的なんだ。

常に、日本―パリ便はドル箱便。観光客で満席。JAL,ANA,AFR3社が両協定して、高いために、ぼくはこれには殆どのったこともない。

ロシアも変わったもの。移民局を簡単に通過できる。外に出た途端、モスクワの空港、玄関にハイエナが獲物を漁るようにタクシーの運ちゃんが執拗に寄ってきた。

悪名高きモスクワ「雲助」のように群がっているような国は、最近ではアラブ、アフリカ諸国でも見られなくなった。

国内線乗り換えはターミナル1。人に聞いても言葉が通じない。やっと「トランジット」デスクで聞いてチケットを貰ったが、外に出てミニバスを捜すが車がない。また、ハイエナ「雲助」が寄ってくる。時間はない。車がこない。ルーブルは持っていない。チェックインの時間が迫ってきたので、さらにスリリングだった。

また、トランジットのデスクに戻ると、ウクライナの乗客が居たので助かった。とんでもない汚いミニバスがきた。車の番号が見えない。これじゃあ捜すのが難しい。ウクライナの女性のお陰だった。ターミナル1まで約10分。

国内線ターミナルは、狭いところで大きな荷物持参の客でごった返す。チェックインカウンターまで行くのに時間が掛かり、総ての荷物の検査、旅券、航空券を徹底チェックしている。

これもチェチェン闘争の影響だろう。チェチェンリーダーが戦闘で殺されたばかり、必ず大きな報復措置がモスクワで行われるだろう。

人だかりを見た瞬間「飛行機に乗り遅れる!」と思ったが、X線の機械に荷物を入れているとき、中からIAAFのアナが声を掛けてきた。手を上げて応える。これで乗り遅れる心配がないと、安堵した。

ロシア陸連の元100M選手(PB10秒15)アレックス、リベラションのアラン記者3人がチェックインを済ませたばかりだ。

これでなんとか飛行機に乗り遅れることはないと思いホッとした。2階に上がると、直ぐに搭乗開始。外は零下10度らしいが、緊張のためか半袖でも寒く感じない。

バスで乗り付けて飛行機は両側に2席の小さな飛行機。棚も小さい。バッグを棚に上げると、若いオネ−さんに「腰掛の下に入れろ!」と叱られた。

かなり年代モノの飛行機だ。TU162?大丈夫かと心配になる。

赤ワインまでも酸っぱい。パリからのフライトは、アメリカ航空会社のフライトより旨いものが出たが、国内線は相当に酷い。

座席は小さい、狭い。ぼくでさえもテーブルを下ろすと、腹が支えて平らにならない。トイレは暗く、汚い公衆便所並。

わずか1時間のフライトだった。無事到着。窓から見えるヴォルゴグラード飛行場は電気も少なく、すでにターミナルは閉鎖され、ひっそりと静まり返っていた。バスを降りて飛行場に一端出される。荷物を受け取るまで、建物の外で待たされる。マイナス10度か。

冷たい乾いた空気を胸に吸う。時間が停止したような、開港当時からなんの手をつけることもなく佇んでいるだけのような建物。乾いた埃っぽい空気、周囲の雰囲気がなんとなく中央アジアの印象を受けた。

ホテルのバスが迎えにきていた。車で20分、外が見えない暗い道路を走った。

ホテルの入り口は大改装中。2階の臨時受付でチェックインを済ませて部屋に入る。

ホテルの裏側は駐車場。室内の電気を消しても、昼間のように明るく、部屋が暖房で暑くて眠れない。

7時に起床。シャワーを浴びて、写真を撮りながら2時間散歩。寒い!吐く息が真っ白い。乾燥しているので、車の埃がたつ。たちまち、喉がいがらっぽくなる。

まだここでは春は遠い。大半の女性が長いコート、毛皮の帽子を被って、足早に職場に向かう。中年の女性が多く働いている屋内マーケット、中央アジア系の女性も働いていた。

大きな橋を渡り、朝日に反射している川面に向かって坂を降りる。ロシア正教独特の屋根の建物があった。中に入ると7〜8人の人でミサが行われていたので、静かに出てきた。

ボルガ川に出て歩く。水鳥が多い。太極拳をしている人たちが居た。周囲に人影はない。現れた東洋人を見ても、一生懸命太極拳に熱心だった。

古い船を陸にあげて公園内にモニュメントを作ったが、ビンの欠片がいたるところに散乱、荒れに任せている。

ホテルに戻ると、朝飯をアレックスとアランが食べていた。

朝飯後、協会差し向けのメルセデスベンツがホテルまで迎えにきた。市内中央でカードを使用することができた。

市内を歩き始めたが、とにかく言葉がわからない、地図がないのでインツーリストに立ち寄ったが、見るものが少ないこの町に観光用の案内書のようなものない。地図もロシア語だけでトンとわからない。

第2次大戦の激戦地、スターリングラードの攻防戦でソ連が勝利を収め、ターニングポイントになった土地ぐらいしか予備知識がない。当時のナチドイツ軍司令部があった現百貨店の地下、現在戦争博物館になっているところを見学した。

美しい女の人たち3人が、百貨店地下の旧赤軍総司令部を改造して、スターリングラード戦争博物館を経営している。販売店で観光案内書を期待したが、地図があっただけ。

郵便局に切手購入に行ったが、言葉が通じないので購入するのに一苦労。窓際で「マルカ」と言っていたのを真似たら、オネ―サンがようやく理解してくれた。

公園の中にあった小さなテント小屋でビールを飲んだら17ルーブル。約70円か?目抜き通りのきれいなところで飲んだら40ルーブルだった。 しかし、乾燥した大気、ビールはウマイ。

夕食後、グランキャフェに行くと、97年、膝、効き足の踵を痛めて引退を余儀なくした三段跳び元世界記録保持者のヨランダ・チャンが友達と一緒に飲んでいた。

帰りは一緒にホテルまで歩きながら話す。祖父は毛沢東政権の時の外務大臣、父親がモスクワ留学のまま居残り、ロシア人と結婚。異色の背景を持つ。現在スポーツ番組の解説者として97年から現在にいたると言うことだ。

96年アトランタ五輪を目指したころ、チャンは「コーチも私も16mを越える予想をしていた」と語る。でも、笑いながら「最近の女子三段跳の全体的な記録向上は素晴らしい。」と言っていた。

チャンはレポーターとして、シドニー、アテネ五輪をくまなく取材している。アテネでは、予選通過の結果を見ると「タティアナは、決勝で必ず世界新記録を出して優勝すると思ったのに・・・、優勝を意識して硬くなって大失敗。タティアナは3位になったのが信じられず、試合後1時間経っても泣き止まなかった。あの日、ムバンゴのジャンプは素晴らしかった。勝ったのが不思議ではない」とコメントした。

第二次大戦激戦地、旧スターリングラードから飛び立つフェニックス

旧スターリングラードは第二次大戦、史上に残るソ連軍対ナチドイツの市街戦の大激戦地だった。赤軍がドイツ軍を東部戦線で破った結果、第2次大戦のターニングポイントになった。

ドイツ軍はボルガ河を越して、東部に占領地を拡大することはできなかったし、コーカサス地帯の油田占領はならなかった。

そのソビエト連邦も崩壊。約10年が経過したが、ロシア有数の大都市。大戦で98%の住居が破壊され、市は完全に焦土化したと言われる。

大ステップの中にある街は破壊されたこともあるが、市そのものの歴史も500年と浅く、モスクワ、セイントピータスブルグのように外国人観光客を招聘する目玉商品はない。町は近代化に遅れ、埃が多く、見栄えのしない暗い印象だ。

冬は寒く、風が強い。緑は5月にならないと芽が吹かないとか。しかし、春、夏が一挙に訪れると、街は緑に包まれ、花が一斉に咲き始める。真夏の温度計は40度に上がる、気象条件が非常に激しい土地。

イェリナ・イシンバイェワ(ロシア)は、両親の強い薦めで、姉と共に著名な体操選手育成ジムに、テストを受けて入学。15歳まで体操選手、五輪出場を目指していた。

このジムの外観の印象は、建築されてから一度も手をつけていないような、ジムとは到底想像できない建物。中の施設は、体操用具は素人で知識はないが、かなりの年代ものと見当がつく。

イシンバイェワは、15歳で身長が高くなりすぎて、ここのコーチに棒高跳に転向を薦められたのが、そもそも棒高跳を始めたきっかけだ。詳しいことは、インタビュー記事を参考に。

ここから次に訪れたのが、やはり多目的スポーツジムだ。アテネ五輪女子走り高跳優勝者、イェレナ・スレサレンコを輩出したジム。イシンバイェワもここを暫し使い、特に、五輪前はマッサージ、サウナを使用したとのこと。

次に、エリート選手だけが通学、一般教育を受ける特別学校を訪問する。休日だったので、生徒は誰もいなかったが、われわれのために学校を開けてくれた。

この旧ソ連スポーツシステムをそのまま継続、エリートスポーツ選手育成をしている。この学校から出た五輪、世界選手権優勝は、陸上競技、水泳、レスリング、ボクシング、体操、リズム体操など、何人いたか数を忘れたが大勢いると言うことだった。

一般教育を受ける学校と言うことだが、学校外の壁に輝かしい選手の功績を称えた、一種の”洗脳”の役目を果しているのだろう。意識の刺激の役目を果している。

練習中に5mを1回跳んだと言う。

ボルガ川に沿って街が西岸辺に南北に発達している。市の中央から2km北の郊外、ママイェフの丘に82mの立像、戦没者記念ドームが建立されている。

丘の下に、スポーツ施設、体育大学、学生寮、室内陸上競技場がボルガの岸辺に集結している。室内競技場、がらんとしていた殺風景な室内に、ダンスコンクールを週末に控えて特設舞台が作られていた。

外は寒い風が吹くが、室内は汗ばむほどの暖かさだ。イシンバイェワ、エブゲニ・トロミモフ・コーチが練習を始めた。写真は好きなように撮れる、予期していなかった世界最高の棒高跳の第1人者、史上初の5m越えが期待される世界で最も熱い視線を浴びる女性だ。

周囲の雰囲気と、不釣合いな、彼女のためだろう。棒高跳の施設だけは西側の新製品を輸入している。

この夜、市内目抜き通りにあるイシンバイェワの贔屓のレストランで夕食。外で待機していると、500の番号を付けたBMWの高級車を駆ってきた。

食事をしながら、70%の会話を英語で返答。通訳のアシストを受けながら続けた。この時ばかりと、彼女が食事する間もなく、次から次へと質問の攻撃、家族、金、ボーイフレンド、車にドンドン際限なく横滑りをする。

遅くなって、2kmを徒歩でホテルまで帰る。外は冷える。市内でよく見かけるのだが、若者がビール片手にして飲みながら歩いている。娯楽が圧倒的に少ないのだろうか?

翌日、イシンバイェワが戦争博物館、ヴォルガの沿岸を数時間案内してくれた。ヨランダのTVクルーも常に一緒だ。しかし、実にかれらのやり方が勝手で、仕事がやりづらい。

市内にある屋外戦争博物館は、当時使われたタンクなどの車両、破壊された建物をそのまま残して、記念モニュメントにしている。イシンバイェワは破壊された建物を見るたびに、闘志、パワーを受けると言う。

彼女はタンクの上に乗って、博物館を訪れていた数百人の兵士がいた。大尉に兵士とイシンバイェワの撮影許可を頼むと、兵士はイシンバイェワを知っているので、いとも簡単に許可して楽しい写真が撮れた。

スポーツ委員会が招待してくれた夕食に招待された。ウォッカで始まり、あまり上手いので数杯を飲んだ後は効き過ぎた。かなり酔ってしまった!!

気がつくと、朝だった。相当酔った様子だがあまり覚えていない。

ヴォルゴラード滞在最後の日、モノクロ写真を撮りに方々を歩く。

朝4時起床、朝飯は部屋に運んでくれた。外はまだ暗い。20km先の飛行場に行く。日にわずか3便がモスクワに飛ぶ。しかも飛行機は空軍用に作ったものを国内用に改良したものとか。

飛行場は、世界中どこの国でも華々しく、明るい雰囲気があるがここは暗く、飛行場に雰囲気はない。飛行場ガード兵士が旅券を3人でチェックしたが、ロビーには人の雰囲気がない。

屋根にイシンバイェワの、どうしたのか3枚の大きな看板が掛けられていた。それを撮影したのを兵士がチェックしてから、荷物検査、搭乗手続きを済ませる。中には20人ぐらいの乗客がいた。

国内料金がいくらかは知らないが、一般の人の収入からすると、簡単に支払える料金ではないはず。乗客はビジネスマンらしい人たちだけだった。

上空から見えるステップの大地に、気ままにヴォルガが蛇行する。食い入るように窓から、ロシアの大地を飽きずに眺めてモスクワに到着した。

(望月次朗)

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