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史上最強ジュニアスプリンター、『雷』ボルト

ウサイン・ボルト(20歳、ジャマイカ)は、15歳332日の史上最年少でジュニア世界選手権200mを圧勝した。一夜にして、陸上好きなジャマイカの「スーパースター」になった。国内メディアはThunderboltにかけて「雷・ボルト」のニックネームをつけた。03年、カナダのシェーブロクで開催されたユース世界選手権も20秒40で圧勝。続く、04年4月11日、バーミューダ開催のカリフタゲームズで、史上初のジュニア選手としてサブ20を越えた19秒93(従来の記録は1985年、ロイ・マーティンが記録した20秒13)のジュニア世界新記録を樹立。名実共に、この世代の頂点に立った。その後、成長期にあって身長の伸びが故障の原因で、過去3年間は足踏み状態だった。06年、ドイツでハムストリングの治療後、順調に回復して、ローザンヌGPで19秒88の自己新記録を更新した。ボルトはジャマイカに存在する3陸上競技クラブのひとつ、Racers Track and Field Clubのミルズ・名コーチの指導を受けている。以下は、国立競技場のサブトラックとUWI(University of West Indies)の「芝生」トラックでの練習中、小学校訪問、夕食、撮影などの密着取材の前後に話したものをまとめたものである。取材中、ボルトは音楽にあわせて踊りだす、ボールを見つければ子供たちとサッカーに興じ、コーチとは和気あいあいの間柄。大きな可能性を秘めた楽しみな選手だ。

成長時の故障続き

UWIの広大なスポーツコンプレックスの一角にある「芝生トラック」の練習を見学した。「芝生トラック」と言われても現物を見ないことには、どんなものか想像が難しい。簡単にいえば、全天候トラックを作る資金不足のため、熱帯の野性的な繁殖力の強いタフな芝生を全天候トラックのように使用している。この日、短距離選手全員、男子は30kg以上もある重石を引っ張る50mを全力疾走20本。が、タフな芝生はビクともしない。ここ芝生トラックは、意外と滑らない。カーブはなぜか黒い線が芝生にしかれている。レーンは踏み固められているが、芝生はしぶとく生きている。選手はスパイクをつけない練習が多い。芝生の上の練習は、無駄のない大きな腕振り、膝を高く上げてリズミカルな走りができなければ前に進まない。キック力が大切だ。この競技場近くの体育館内で、ウエイト器具を使用しての近代的なジムがある。隣のサッカー場では、「レゲエボーイズ」のニックネームで知られている、ジャマイカサッカー代表チームが練習中だった。ちなみに、ボルトの成長を年代毎に記す。:16歳7ヶ月、20秒25,16歳1ヶ月、20秒13、17歳7ヶ月、19秒93,19歳10ヶ月で19秒88。ロナルド・クオーリーが20歳5ヶ月で19秒86,20歳7ヶ月でザビエル・カーターがローザンヌで19秒63の歴代2位の好記録を樹立している。ボルトの自己記録は100m、10秒09、(02年)200m、19秒88、(06年)400m、45秒35(03年)

−すでに来季を目ざして練習再開?
ボルト−そうなんだよなあ〜!(笑う)

−コーチが練習をもっとするように言ってくれって!
ボルト−エッ!?コーチは冗談がきつい!(笑って)こっちは一生懸命にやっているのに。スプリンターはみんな基本的には怠け者さ!練習する時はするが、『レイジー』だよ!アサファ・パウエルだってそうだよ。練習を少なくして早くなりたいのさ!(笑う)

−ストレッチを入念に行ったが、故障回避のためですか?
ボルト−そうです。故障回避の特別の準備運動。

−いつごろから陸上競技に興味を持ち始めたのか?
ボルト−ワルデンシア小学校、12歳のころから陸上競技が面白くなった。その前にはクリケットやサッカーに夢中だった。1999年、12,3歳ごろから早かった。クリケットコーチが陸上競技をするように薦めてくれ、努力すれば世界的なスプリンターになれるような気がした。

−ほかにはどんなスポーツに興味がありますか?
ボルト−サッカーは大好きだが、今はコーチからプレーすることは禁止されている(笑う)

−あなたは「チャンプ」(注:熱狂的な小、中、高校の全国大会)でスターだった。
ボルト−ぼくはチャンプで活躍して才能を認められてここまできた。

−そのころの記録は?
ボルト−15歳の年齢別で200m、21秒60、400m 47秒33 だった。

−なぜ、キングストンに出てきたの?
ボルト−田舎では施設が良くないし、国際五輪協会からスポーツ奨学金を貰いHPTC練習できるようになったからです。マネージャーのノーマン・ペアートが親代わりになってくれ面倒を見てくれ、最近までかれと一緒に住んでいました。(注:10月に購入した家に移り独立した)

−生活費は家族が見てくれたのか?
ボルト−家族とOS(注:OS,(Olympic Solidarity)の訳。)。母親が再婚したが義理の父親を始め、家族中がぼくが陸上を続ける良き理解者だ。スパイクなど、陸上競技に必要なものは購入してくれる。02年、ジュニア世界選手権で優勝してから、IAAF主催のHPTC(High Performance Training Center)で練習することができるようになったころからスポーツ奨学金を得た。友人のジャルマン・ゴンザレス、400m自己記録44秒58、は同期生だ。

(ほかに世界的な選手の例を挙げれば、アーヴィン・サラディノ(パナマ、走り幅跳び、8.56m)、ダニエル・キプチルチル・コーメン(ケニア、1500m3分29秒2)、ジャネット・ジェプコスゲ(ケニア、800m1分56秒66)らが、各地のHPTCから育っている。)

−ブレークしたのは、02年3月、バルバドスで開催されたセントラルアメリカ&カリビアンジュニア選手権大会で20秒61で優勝したときですか?それともキングストンで開催されたでジュニア世界選手権大会で優勝した時ですか?
ボルト−地元の期待に応えてジュニア世界選手権で優勝した時でしょうね。あの大観衆の前で歓声を浴びてジュニア世界選手権で優勝した瞬間は、プレッシャーできつかったが最高の喜びで興奮しました。勝ったことで大きな自信になった。(注:決勝は20秒61、予選は20秒58、このときの年齢は15歳332日。史上最年少だった。)

−03年、シェアーブルーク開催のユース世界選手権大会で20秒40で優勝。続く、パンアメリカンジュニア選手権で20秒13の世界タイ記録で優勝で無敵だったが、200m以外の種目に興味は?
ボルト−ないわけではないが、あのころから好きな種目は200mだった。100mは短すぎたし、400mは長すぎるしね。故障もなく、面白いように自己新記録を更新できました。

−コーチが代わっていますね。
ボルト−代わったのは進級するたびに学校が違ったから。トレロウニー教区の中学校のデベリー・ネゲント体育教師、ウイリアム・ニブ高校の時の高校のドゥワイト・バーネット先生、フィッツ・コレマン・コーチ、グレン・ミルズ(The Racers Track and Field Cub)とコーチが変わりました。

−このころアメリカ留学の話はなかったのか?
ボルト−高校、大学からの誘いはたくさんあったらしいが、ぼくはジャマイカのほうがいいね。

−03年、パリ世界選手権大会は、ジャマイカ選手権で200m優勝したのにコーチの薦めで出場を取りやめた。
ボルト−ぼくはまだ16歳だったので、国際レースは未経験だったし、得るものより精神的な不安でまともに走れないだろうとコレマン・コーチが判断して中止。最適の判断だったと思います。

−04年、アテネ五輪の失敗原因は?
ボルト−故障上がりで調子は良くなかった。初めての大きな国際大会であがってもいたので予選落ちだった。(注:予選5組21秒05で5位)応援してくれた人たちを裏切ったのが申し訳ないが、ぼくとしてはイイ経験だった。アテネ五輪200mでメダル獲得を目標に上げました。この年の春先は調子が良かった。04年4月11日、バーミューダで開催されたカリフタゲームズで19秒93(これまでの記録は20秒13、1985年、ロイ・マーティンが記録した)のジュニア世界新記録を樹立。この記録は02年8月から世界ベスト記録だった。周囲も自分からも高い目標を掲げたが、実は、夏に故障でドイツで左ハムストリングの治療を受けたので、イタリアのグレセット市で開催されたジュニア世界選手権大会を棄権して、五輪にかけたが予選落ちだった。

−それから不運にも故障が続た。
ボルト−ホント!故障ばかり!春先はいつも調子がイイ。例えば、05年、6月26日、キングストンで20秒27で優勝。ナサウで20秒03で優勝。7月22日、ロンドンで19秒99の好記録を出したが、ヘルシンキ世界選手権大会前、2週間前にドイツで治療を受けている。200m決勝は最後は歩いてゴール。全く走れなかった。こんな状態が3年ぐらい続いて、故障なしでシ−ズンを通して練習できたのは、06年シーズンぐらいのものかな。故障がなければ、07年シーズンは期待できると思うね。

―近年になく06年の200mは飛躍的に伸びた。
ボルト−ホントだよね(笑う)特に、ローザンヌのレースはショッキングだった。ぼくはワーラス・スペルマン(US)、タイソン・ガイ(US)らをマークしたが、8コースのザビエル・カーター(US)は、全くノーマークだったから。アッという間にゴール、19秒63には驚いたね。このレースで19秒台が4人だった。スペルマンも韓国で19秒68の記録も凄い。来季はさらに激戦になるだろうから大阪は面白くなるね。

−身長があるだけに、コーナーリングは難しい?
ボルト−1〜3コースまではコーナーをうまく走れない。最適なコースは5,6で、その場合も外側に強い選手がいれば最高です。

−200mの世界記録を破る可能性はあると思いますか?
ボルト−どんな記録でも破るのは不可能ではない。記録は破るためにあると思う。スプリンターの頭のどこかにマイケル・ジョンソンの世界記録がこびりついている。その記録に追いつき、追い越せを目標にしているからだ。いつかは必ず誰かが破ることができます。

−大阪のライバルは誰と考えますか?
ボルト−ガイ、スペルマン、カーターらのアメリカ選手。

−予想優勝記録は?
ボルト−普通の条件なら19秒台を走らなければ、絶対に勝てないと思うよ。

−大阪世界選手権には400mには出場しないのか?
ボルト−出ないよ。200一本で目標は優勝。悪くてもメダル獲得はしなければ・・・。

ボルト−ところで世界選手権はいつですか?
−07年8月25日から9月2日まで。
ボルト−エッ!そんな先なの?来季はシーズンは長くなりそうだな。

グレン・ミルズ(57歳)

ミルズは1991年Racers Track and Field Clubを創立。ミルズはボルトがアテネ五輪で第一次予選で失格後、(注:男子200m予選4組21秒05でまさかの5位で予選落ち)マネージャーのノーマン・ペアートに依頼されてコーチを始めた。これまで20年間、ジャマイカナショナルヘッドコーチ、アメリカ、03年世界選手権優勝者のキム・コリンズのコーチ歴がある。ミルズはパウエルのスティーブ・フランシス・コーチと対照的に、公開練習、インタビューに快く応じてくれた。

「長年コーチをしているが、ボルトのような逸材はめったにお目にかかるものではない。最近では身長の伸びが止まったと思うが、発育期における身体のアンバランスでここ数年故障が続発した。背中の腰の部分が少し曲がっていたため、ハムストリングが故障、回復、故障の繰り返しで過去3年間故障で満足にシーズンを過ごすことができなかった。わたしの最初の仕事は、いかに故障を回避して練習を継続することができるか最大課題だった。04夏、ミュンヘンでドイツサッカー代表選手など、世界中に名を知られたミュラー・ウォルファート博士の治療、リハビを受けた。05年世界選手権2週間前にも治療を受け、06年シーズン前に再度経過をチェックしたが、問題もなく医者から問題なしと言われた。今季これといった故障もなかったので200mで自己記録更新に結びついた。身体の成長が止まったと思うが、ボルトはまだ20歳になったばかり。まだ、やることはたくさんあるし、焦ることは全くない。身長は2mを超えているかもしれないが、身体も大人になって強くなってきた。あの身体で200mのカーブを全速力で走るのは、ストライドを測ったことがないが大変なこと。ボルトの身体は誰が見ても、200mよりは400mが最適だ。200mをプラットフォームにして、07年から徐々に400m転向を考えている。かれは16歳の時、ほとんど400mの練習をしなくて45秒35を記録している。予定として、07年5月に開催されるジャマイカ国際招待レースで、現ジャマイカ400mの記録44秒74を破るのが当面の目的です。でも、大阪の世界選手権大会は、多分、200mで優勝を狙うでしょう。」

(07年月刊陸上競技誌1月号掲載)

 
(望月次朗)

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