shot
 
NEWS

大阪世界選手権ダブル優勝を狙う、サンヤ・リチャーズ

「サンヤは世界チャンプになれる!」父親が予言した

サンヤ・リチャーズは、「陸上王国」ジャマイカ生まれ。かの有名なジャマイカ「ガールズ・チャンプ」と呼ばれる陸上競技全国大会で、サンヤが5歳ぐらいから数々の記録、輝かしい戦跡を残して「天才スプリンター」と賞賛されてきた。
サンヤ9歳のときの大活躍で、元セミプロサッカー選手の父親リッチー(45歳)が「サンヤは未来の世界チャンプだ!」と予言した。サンヤ12歳の時、一家は母親シャロン(43歳)の妹の住んでいるマイアミに移住。シャロンは「まだ子供たちが小さいので、アメリカの生活に慣れるのも早いし、子供の教育・スポーツの才能を伸ばす環境もジャマイカより優れている。特に、サンヤのスポーツ能力を伸ばすことのできる環境はジャマイカよりはるかによいと思った。」一家がこぞってサンヤのスポーツ才能に掛けたのも興味深い。
このアイデアはまさに的中した。移住先でもサンヤの能力は抜群だった。全米中学、全米ジュニア新記録を次々に更新。高校最終学年には、全米最優秀女子選手に表彰されている。02年5月にアメリカ市民権を得る。テキサス州のオースティン市にあるテキサス大学からスポーツ奨学金を獲得した。ここでもたちまちに頭角を現して、全米ジュニア記録を塗り替えること5回。04年200,400mでそれぞれ22秒49,50秒82のジュニア世界新記録を樹立している。
NCAAで大活躍、アテネ五輪トライアルを通過。アテネ五輪女子400m決勝で6位。4x400mリレー第3走者として優勝に貢献した。04年は長いシーズンだった。1月から室内大会が始まり、60,100,200,400mの種目を合計36レース、4x100,4x400mリレーにもたくさん出場している。両親は「燃え尽き」現象を恐れてプロ転向を宣言した。リチャーズ一家は、オープンに話し合い底抜けに明るい雰囲気がある。ここでも両親の適切なアドバイスが効を奏した。車で1時間半の距離にあるウェイコ市のバイロー大学陸上部のディレクター、マイケル・ジョンソン、ジェラミ・ウォリナー、ダーロルド・ウイリアムソンらを育てクライド・ハートコーチの指導を受け始めた。コーチは「とにかく1年間の約束だった。」と言うが、今年3年目を迎えている。05年リチャーズは、世界選手権で女子400mで2位、史上最年少でサブ49秒の48秒92を記録。昨季、世界で唯一女子400mでサブ49秒、48秒70でアメリカ新記録を21年振りに更新した。リチャーズは一瞬のためらいもなく「わたしが世界記録を破る!」と宣言した。

世界選手権決勝レースの失敗から大奮起

サンヤ・リチャーズの話を聞くと、今の時代にも絵に描いたような成功物語に感心した。サンヤもさることながら、リチャーズ一家のサンヤに掛ける情熱が興味深い。両親はサンヤに付ききりだ。父親リッチーは、あたかもアシスタントコーチ、栄養士などの日常生活のアドバイザーだ。母親シャロンはマネージャー、サンヤと共に遠征に同行する。1歳年下の妹がサンヤのヘヤーを整えてくれる。両親が子供に深い愛情を注ぎ、子供は両親を尊敬している。家族はサンヤを中心にして回っているが、見ていて楽しい家族だ。両親が3月初め、フロリダからオースティンに引っ越してきた。サンヤは今季からオースティン、ウェイコにアパートを購入。週の始め3日間ウェコで練習、木、金、土曜日をオースティンで練習する日課だ。もちろん、両親も一緒に同行する。ウェコ、オースティンのリチャーズ一家の新居、オースティンで「ピラテス」で身体の細部まで筋肉を鍛える。サンヤの行きつけのショッピングに付き合いながら、両親を交えてインタビューしたものをまとめた。

−ヘルシンキ世界選手権決勝レースの失敗でなにを習いましたか?
リチャーズ−平常心を失わないこと。05年1敗したレースが、最も大事な世界選手権決勝レースだった。絶対に勝てると思ったのに・・・。それも勝とうという意識ばかりが強く、感情をコントロールできなかったのが失敗。前半のオーバーペースが後半に失速を招いた。勝てると思ったが、トニック・ウイリアムスーダ−リング(バハマ)に負けちゃった。(笑い)父親からも「平常心に戻れ!」と言われましたが・・・焦ったんでしょうね。勝たなければならないプレッシャーがあった。でも、その反動が、世界選手権で負けたからといって落ち込んでいなかったし、こんどこそは「負けない」とばかりに待ち構えて、世界選手権9日後のチューリッヒGLで自己新記録48秒92を記録を出した。トニックにリベンジを果たしました。でも、タイトルを取れなかった悔しさは変わりませんよ。(笑う)

−寒さと雨中のレースが影響しなかったか?
リチャーズ−それはなかったわ。完全に自滅よ。母親の顔を見たら、みんなが期待してくれたのに報いることができず、思わずワンワン泣きました。(笑う)

−大学陸上部員とプロ転向との違いはなんですか?
リチャーズ−例えば、04年シーズンは大学陸上競技部員ですから、決められたレースに出場しなければならない義務があります。コーチの指示に従って、60、100、200、400m、4x100,4x400mリレーに出場しました。学校、個人の名誉のためにレースに出場、当然のことながら個人の自由がかなり束縛されます。04年は数多くの大小のレースに出場したわ。精神、肉体的に疲労困憊して「燃え尽き現象」を起こさないとも限りません。そこで大学生でプロになっても施設は自由に利用できますが、陸上競技部員としてではなく、プロになって経済的に独立する環境になれば、個人の自由な練習、レース選考ができます。わたしの場合、家族会議を開いて意見を交換し、最後の大学2年間はプロ転向を決めて新しい方向、レベルに挑戦することに決めたんです。

−それがウェイコでクライド・ハートコーチの指導を受けることになった。
リチャーズ−アテネ五輪後からです。地理的にもオースティンから車で約1時間半の距離にあるし、クライド・コーチはマイケル・ジョンソン、ジェラミ・ウォリナーら、わたしと同じ200,400m種目のプロ選手を育成した信頼できるベテランコーチです。

−コーチを依頼した時の彼の反応は?
リチャーズ−コーチは、最初にコーチが求めたものは高い「平均値」です。ですから、練習で高いレベルでコンスタントに走る練習です。05年、チューリッヒGLでサブ49秒を記録したのはコーチのお陰です。コーチは練習には妥協を許さない厳しさもあるが、人間的には非常に優しい人です

−ハート・コーチは「1年間」の期限付きだったとか?
リチャーズ−コーチとわたしと両親が一緒に諸々のことを話し合いました。コーチはプロ女性ランナーの指導は初めてのためか、1年間の期限付きで始めました。

−1年目から結果が出ましたね。
リチャーズ−05年シーズンは1敗しただけ。待望の48秒台の自己新記録を樹立するなど、確実に成長してきたのもハート・コーチのおかげです。

−06年シーズンを振り返って、どのように思いますか?
リチャーズ−200m22秒17の自己新記録、48秒70アメリカ新記録、ゴールデンリーグ6戦無敗でジャックポットを獲得、これまで最高のシーズンを終えました。大阪世界選手権に向けて、大きな弾みになりました。

−アマとプロの差はなんでしょうか?
リチャーズ−学生は勉強の合間に練習して、競技は学生とするが、プロレベルは学生相手ではなく、世界の強豪と一緒に世界のトップランナーと戦うレースです。生活が掛っていますから、高いレベルの高いモチベーションですべてが圧倒的に違います。

−あなたのフィアンセも、フットボールで最高の活躍をしたとか。
リチャーズ−アーロン・ロスもテキサス大学のディフェンシブバックの選手です。かれと昨年の始め、お互いのスポーツで「最優秀選手」を目指してがんばろうと約束しました。わたしが女子400m無敗、ジャックポットを獲得、ロスは「ジム・トープ賞」と呼ばれる全米一のディフェンシブバックに与えられる名誉ある賞を授与されました。4月、NFLドラフト会議1順指名でかれの希望する「ダラスカウボーイズ」にピックアップされるのを待っています。

−話によると、あなたはロスにもっと激しいタックルをするようにアドバイスしたとか?
リチャーズ−しましたね。(笑う)インパクトの強いタックルが必要だ!と。(大笑い)

(ロスがプロキャンプからオースティンに帰ってきた。ロスにリチャーズからのアドバイスについて訊くと、「無難なタックルだけでは、インパクトが薄い。激しいタックルを決めて、人の注目をあびるようなプレーが必要だ」と、説得された。また、ロスはリチャーズから競技への献身的な積極性のある態度、ハード練習などを学んできたという。)

―結婚は?
リチャーズ―多分、北京五輪後になるかも。

―2人の新しい約束ごとは?
リチャーズ―わたしが北京五輪で200,400mでダブル優勝。アーロンはスーパーボ−ルで優勝することです。

−9歳の時、「世界チャンプになる!」と断言したとか?
リッチー−わたしは元サッカー選手。(注:リッチーはサンヤ9歳の時の「ガールズ・チャンプ」の優勝ビデオ、彼のサッカーの活躍のスクラップブックを見せてくれた。「レゲエの王様」ボブ・マリーと大の仲良しだったとか。しかし、ボブ・マリーはサッカーは下手で使い物にならなかったと言う。)「陸上競技王国」ジャマイカなら、スポーツをやった人なら子供のスポーツ才能を見分けることなどは朝飯前だ。サンヤは同じ年齢の男の子より速かったからね。
シャロン−サンヤは子供のころからジッとしていることが嫌いな子だった。「おてんば」で、いろんな競技をトライしていた。ある時走り高跳びで腕を骨折したが。それでもなんかのスポーツをしていましたね。

−サンヤのプロ化は、家族総勢でバックアップしたようですね。
リッチー−もちろんです。サンヤは学生だったが、学生レベルをあれ以上続けても意味がありません。世界的なレベルで競技を続けるべきでした。それには、サンヤの日常環境からバックアップすることが大切です。親から見ればサンヤはまだまだ子供。わたしは栄養士ではないが、サンヤの食事を作る。一人で日常生活をすると、不規則になったり、ファーストフードで済ませるなど、食事面での管理ができない。また、コーチの仕事に首を突っ込むようなことは決してしないが、コーチのアドバイスを適切に理解するために、必ずサンヤと一緒に聞いているし、メモ、タイムなど、毎日の練習の記録をとっています。
シャロン−わたしはインテリアデザイナーの職を辞めて、マネージャー業に徹して、サンヤと一緒に外国遠征してなにかとバックアップできます。

−ビデオを撮って分析ですか?
リッチー−ビデオは記録のために残すこともできるし、走りの研究にも使用できます。サンヤのレースビデオは、9歳ごろからすべて記録してあります。

−リッチーに聞きたいが、男の子が生まれていたら陸上競技をするように薦めましたか?
リッチー−陸上競技も大好きだから難しい質問だね。わたしは大のブラジルサッカーファン。どちらかを選択するとしたらサッカーだね。(笑う)ロスはフットボール選手と言うが、アメリカでは「手」を使ってプレーするスポーツなのになんで「フット」(足)なんだか分けのわかんないことをいう国だよ。(大笑い)

−「短距離王国」ジャマイカから、なぜアメリカ移住してきたのか?
リッチー−確かに、ジャマイカ国内の陸上競技熱は大変なものだが、残念ながらスポーツで奨学金制度はないし、スポーツ選手で生活できる保障は全くありません。娘たちの将来を考慮して、アメリカ移住のチャンスがあったし、スポーツ才能を伸ばす最高の環境で絶好の機会をと思ったからです。

−今年のターゲットは、大阪世界選手権での初のビッグタイトル獲得ですね。
リチャーズ−ホント!今度こそは世界タイトルを獲得します。(笑う)

−200,400mダブル優勝ですか?
リチャーズ−もちろん、トライアルでダブルを狙いますから、大阪でもダブルを狙って行きます。

−自信は100%?
リチャーズ−もちろん、優勝する自信があります。大阪に向けて、昨年11月から練習を再開しました。今季は長いシーズンを控えているので、冬季に基礎的な練習に重点を置いたために室内レース出場を止めてきました。06年は素晴らしい結果を残すことができたが、今年はさらに自分で成長していることが、昨年の練習の質、量を上回るものを消化している事実で確信しています。アスレティックファイナル200mで自己新記録22秒17を樹立、その1週間後、アテネWC400mで48秒70。アメリカ新記録を21年ぶりに更新、大きく一歩前進したと思います。「世界一」の400mランナーを目指します。

−バルセロナ、アトランタ五輪ダブル優勝した第2のマリー−ジョセ・ペレックのようですね。
リチャーズ−そうよ!ペレックは素晴らしい選手だった。彼女の走りのビデオを何度も見ています。わたしのロールモデルです。

−マリーン・オッティと会ったことがありますか?
リチャーズ―まだなのよ。ぜひ一度会いたいと思っています。彼女も偉大な選手ですね。

−1985年キャンベラで開催されたワールドカップ大会で、東独のマリタ・コッホが400mで47秒60の世界新記録を樹立した。この記録への挑戦は可能ですか?
リチャーズ−数年前のわたしならいざ知らず、世界記録は破ることができると思うようになった。以前はとてもこのようなことを口にすることはできなかったが、昨年200,400mの自己記録を大きく更新したからです。マリタ・コッホの持つ女子世界記録47秒60を破ることが視野に入ってきました。まだ、現状ではパワー、スピード不足です。5年後を目標にしています。コッホは前半22秒で入り、後半25秒のペース配分を設定していたはずです。200mのスピードをつけることが世界記録を破る「鍵」だろうと思っています。決して、不可能な記録ではないと思っています。彼女のビデオも何度も見ています。1978年欧州選手権大会でマリタ・コッホが人類最初にサブ49秒を記録してから、28年間で34回しか記録されていません。さらに難関のサブ48秒はわずか2人の選手によって2回だけ記録されています。できれば、来年五輪でサブ48秒を突破したいですね。

―大阪で素晴らしい走りを期待しています。

 
(望月次朗)

Copyright (C) 2005 Agence SHOT All Rights Reserved. CONTACT