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マラソンが貧困のどん底から救ってくれた、ロバート・チェルイヨット

マラソンランナーのロバート・K・チェルイヨット(ケニア、30歳)は、アメリカでの活躍が多いためそれほど日本では知られていない。15歳で両親に捨てられた孤児、床屋、路上生活者、ブッシュランナー、人生に悲観して自殺まで考えたどん底の生活からマラソンによって救われ、「百万長者」になった成功物語でもある。02年、長距離の「メッカ」エルドレッド市で開催されたガブリエラ・ロザの主催する「ディスカバリー・ケニア」ハーフマラソンで2位。ロザグループの元マラソン世界記録保持者のポール・タガートの練習パートナーの一人で持てる素質を開花した。03年ミラノでの初マラソンで2時間11分07秒で3位。03,06,07年ボストンで優勝。06年優勝タイム2時間7分14秒は、12年ぶりにコスモス・ンディティ(ケニア)のコース記録を破る新記録だった。05年NYマラソン4位、06年シカゴマラソンを2時間7分35秒で優勝。自己最高記録もまだ7分台だが、勝負に強いランナーだ。昨秋のNYマラソン「ワールド・メジャーズ・マラソン」最終戦を待たずに、男子総合得点優勝を決めて賞金50万ドルを獲得した。05年、チェルイヨットはエルドレッド出身だが、ポール・タガートが住む首都ナイロビの西南20kmにあるンゴング町に住居を構えている。ケニアは英国から1963年12月12に独立して以来平和が続いたが、07年12月大統領選挙前後から国内情勢が激変した。ルワンダさながらの民族虐殺に発展してしまいそうだったが、政治的な対立だけではなく、そもそも、植民地時代に発端のある土地問題や、それに伴う民族間の感情問題があり、ここで一気に爆発し悪状況になった。12月初め彼の自宅に数日間滞在した。その後、ロザグループは国内状況悪化に伴い、19名のランナーでナミビアの首都ウィントック市郊外での高地練習を敢行。チェルイヨットは、ボストン4勝目を目標、北京五輪マラソンを僚友マーティン・レルと一緒に参列、ケニア勢で上位優勝を狙うことを宣言した。



ボストン、北京五輪優勝を狙う

ガブリエラ・ロザのアシスタントでエルドレッド市に長期滞在して直接指揮を取るクラウディオ・ベラウディオは、今年に入って国内状況悪化に伴い、身の危険を感じながらも練習を続けてきた。だが、最終的に2月半ば19名の契約選手と共にナミビアの首都ウィントックで高地練習をしている。もちろん、ケニア北京五輪マラソン予選会を兼ねたロンドン、ボストンマラソン出場予定のチェルイヨット、仲の良いマーティン・レル(07、ロンドン、NY優勝)、パトリック・イヴティ(07シカゴ優勝)らも一緒だ。ナミビアの近況は電話、eメールで連絡を取ったものだ。

ケニア脱出、ウィントックで高地合宿

−ンゴングはどんな状況ですか。
チェルイヨット−われわれ他所(チェルイヨットはエルドレッド出身)のものは、ンゴングで身の危険を肌で感じるようになったし、ポール・タガートでさえ再三脅迫された状況です。ンゴングはマサイ族の土地。伝統的にマサイはキクユ族と同居しています。エルドレッドでキクユ族が虐殺、迫害を受けたニュースは、われわれに報復ターゲットの向きが変わることが恐ろしかった。一触爆発するような緊迫した状況下で練習はできません。今回の大統領選挙前後に起きた2大部族、東のキクユ、西のルオー族(注:アメリカ民主党大統領候補のオバマの父親はルオー族出身)らが政治的な背景の権力争いから、すでに数1000人が殺害され、50万人の人たちが家を失った状況です。

−あなたのンゴングにある家、アパート、ビジネスは大丈夫ですか。
チェルイヨット−今のところ被害は全くありませんが、長い目で見れば危険かもしれない。まさかこのような事態が起きるとは・・・、ンゴングと連絡を密にしています。ポール・タガート、パトリック・イヴティ、その外のロザのグループ選手は大変な事態になって混乱しています。今回の部族争いは根が深く簡単に収まらないでしょう。再選挙しても、勝敗がつけば負けたほうが強硬な態度、行動を起こすことは眼に見えています。どちらに転んでも問題が大きくなるでしょうね。。

―いつからウィントックで合宿練習を始めたのか。
チェルイヨット−2月の半ばからです。

−やはりケニアで練習に支障をきたした。
チェルイヨット−ウィントック合宿最大の理由は、国内情勢が非常に不安定で身の危険があったからです。内戦状態では、ランナーでも無視するわけには行かず、日常生活に影響を受けています。暴徒は、各地で銃、マシェット、槍、毒矢で武装しています。ロザグループの契約選手19人をここに連れてきて合宿。ローマ、パリ、ロッテルダム、ロンドン、ボストン、ハンブルグまたは各地で開催されるハーフマラソン出場の準備です。

−ウィントックの練習環境はどうですか。
チェルイヨット−ここはケニアの不安定の状況があたかも嘘のような平和な町。1700〜2000m高地で走る場所には不自由はありません。

−いつまで滞在予定ですか。
チェルイヨット−一度、3月に欧州でハーフマラソンに出場して調子を見る予定ですが、多分、3月末まで合宿、最終調整はイタリアでしょう。

両親に捨てられ、15歳で孤児になる

−なぜ、エルドレッドからンゴングに来たのですか。
チェルイヨット−ポール・タガートは、ぼくの憧れの偉大なランナーです。かれのように偉大なランナーになることを夢見てきました。ロザのキャンプに入りたてのころ、ポールからシューズを貰って「ガンバレ!」と励まされたことがあります。04〜05年、調子を崩したので、練習環境を変える必要性があると判断してポールのグループに加わったのです。

−その結果は。
チェルイヨット−ポールのグループ練習は、大変に厳しいものがあります。真剣な練習態度でなければ入れてくれません。ピリピリした雰囲気で、ハード練習の毎日。だから06,07年ボストンで2連勝、06年シカゴでも優勝ができました。

−クラウディオコーチは、「ロバートはマラソンに集中する」と言っていました。
チェルイヨット−ぼくにとってマラソンは命の恩人でもあるし、「人生」そのものを掛けているんです。後ろがなかった苦境から逃れるため手段としてマラソンに掛けてここまでやってきました。話が長くなりますが、15歳の時両親が離婚。母親は再婚すると言って出てゆき、ぼくは父親と一緒でしたが、中学生のころ父親がわずかな農地を手放し、売った金で授業料を払う約束だったにもかかわらず姿をくらまして孤児になってしまったんです。それでも遠い親戚の家族に拾われましたが、学校に行くのもおろそかになり、待っていたのは家事、薪拾い、家畜の世話など、寝る暇もなくこき使われました。こんな生活が5〜6年続きました。

−走り始めたのはいくつですか。
チェルイヨット−00年(23歳ごろ)、少し生活に余裕を持つと、俄然と走る気が起きてきたんです。しかし、それ以前の生活が酷かった。1日2食がやっとでね〜。(苦笑)警察官の兄もいたが、かれも生きてゆくのがやっとの生活状態、かれの世話を受けるわけには行きません。将来に望みを失いなんども自殺を考えたことがあります。そのうち世話になっていた遠い親戚からも追い出されてホームレス。エルドレッドの郊外のモソリアト村の知人の床屋に、「なんでもやるから手伝うことがないか。」と、頼み込んで1日20シリング(約20円ぐらいか)で雇って貰いました。なんとか自分の金でやっていました。ミルクティーを飲むのにも砂糖なし。職があってもホームレス。夜警の人のねぐらを借りて寝ていましたね。そうこうしているうち、今度は別の遠い親戚の人が手を差し伸べてくれ、あたかも自分の息子のように扱ってくれたのは嬉しかった。今、ぼくがそのときのお礼に一軒と数頭の牛を提供しました。また、義母や彼女の親戚一同約40人ぐらいの面倒を見ています。

−ブッシュランナーですね。
チェルイヨット−まあ、そんなところですね。まともなシューズもなかったが、知人が中古買ってくれ形だけは整えて、モーゼズ・タヌイ(ガブリエラ・ロザ・グループの一員)に売り込んでグループに加わって練習を始めたのです。01年、ポール・タガートからシューズを貰い、「いい物を持っている。猛練習すればトップランナーの可能性がある」と励まされた。

神を信じて猛練習

−最初の「ブレーク」は。
チェルイヨット−01年、ローカル10kmレースで優勝、10000シリングを獲得!。夢心地でした。02年、恒例の2月エルドレッド開催のロザ主催「ディスカバリー・ケニア」で2位。それがきっかけでロザグループと契約、プロランナーの第一歩を踏み出しました。信じがたいことですが、あのころのぼくと、現在のぼくがおなじ人間とは思いよらない異なる環境ですね。(苦笑)

−あのころの経験が今どんな形で役立っていますか。
チェルイヨット−与えられたチャンスは2度とないと思っていましたから、今考えると、01〜02年のブッシュランナーの練習は猛烈を極めていました。(笑う)あんな練習なんて今じゃあ到底できませんよ。アフリカは生きるのがひときわ厳しい環境です。選択の幅が極端に狭いからです。ランナーとして成功しなければ、戻る場所がなかったから生きるために必死でした。あの経験から得たものは、死ぬ気になってがんばれば怖いものなし、なんでも報われると言うことですね。

−なにを根拠に成功すると思ったのですか。
チェルイヨット−学校でも早かったし、「神」を信じ、これだけ努力しているぼくに神は絶対に見捨てない!成功すると思っていました。それ以外に頼るものがありますか。

−最初の海外遠征はどこですか。
チェルイヨット−ロザがイタリア各地のレースに呼んでくれ、最終的に540,000シリング(約80万円)を獲得、5エーカーの土地と6牛を購入しました。

−04ボストン途中棄権、シカゴ12位、05年ボストン5位、NY4位と、それほど結果が良くなかった原因は。
チェルイヨット−猛練習して結果を出した反動かも(苦笑しながら)チョットマラソンを舐めていたかもしれない。その後、ンゴングに練習場所を変えてポール・タガート・グループに混じって練習を始めたのです。

北京五輪はケニア選手の上位独占

−これまでの獲得した賞金の投資先は、見せてくれた不動産のほかになんですか。
チェルイヨット−基本的に賞金は、貯金、不動産、農地購入の3等分しておきます。今住んでいるところは現役中は、ここは合宿練習所と思って住んでいます。家族(注:結婚、一人娘がいる)と一緒に住んで練習はできないので、ここは若い練習パートナー、ドライバーらと一緒です。

−ボストンはケニア五輪マラソン選考会も兼ねているんですね。
チェルイヨット−ボストン、ロンドンで優勝すれば、今年は部族間争いで選手選考が難しいだろうが、ケニア陸連は北京五輪代表に選ぶはずです。

−五輪でライバルになる選手はだれですか。
チェルイヨット−多分、大阪世界選手権と同じように、ケニア選手の上位争いが繰り広げられると思います。エチオピア、モロッコ選手がどこまで調整してくるでしょうか。

−北京五輪をどのように考えていますか。
チェルイヨット−4年に1度レースで、五輪優勝は最も尊敬され名誉な優勝だと思います。ぼくはアメリカのロードレースの中でも、最も難関とされているビッグマラソンに勝っているので、できればマーティン・レルと一緒に走って上位をケニア選手で独占するのが夢です。

−北京五輪は、高温多湿の悪状況下で走らなければならないが、その対策はどのように考えていますか。
チェルイヨット−暑さ対策はコーチに任せて、ぼくらはコーチの指示に従うだけですね。

−がんばってください。

 
(08年月刊陸上競技4月号掲載)
(望月次朗)

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