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Special Interview 男子400mウェイデ・ファン・ニーケアク

ロングスプリント転向は神様の導き
1年間で約1秒もタイム短縮,底知れぬポテンシャル

 北京世界選手権の男子400mで新星≠ェ誕生。急成長中だった23歳のウェイデ・ファン・ニーケアク(南アフリカ)が,2人の五輪金メダリストを破った。この種目は2008年の北京五輪以降,ラショーン・メリット(米国)が圧倒的に強かったが,2012年のロンドン五輪からキラニ・ジェームス(グレナダ)が台頭。だが,今夏の北京世界選手権ではファン・ニーケアクが世界歴代4位となる43秒48の好記録で両者を抑え,2位のメリットも43秒65の自己新(歴代6位),3位のジェームスもセカンドベストの43秒78をマークする史上最速のメダル争いだった。
 ファン・ニーケアクは元々200mが専門で,日本の飯塚翔太(中大,現・ミズノ)が優勝した2010年の世界ジュニア選手権(カナダ・モンクトン)で4位に入っている。しかし,シニアになってからは400mに転向。21歳で出場した2013年のモスクワ世界選手権は予選落ちだったが,2014年は6月のニューヨークDLで大幅自己新の44秒38をマークし,翌月の英
連邦大会(英国・グラスゴー)では同じ年齢ながら雲の上の存在≠セったジェームスに続いて銀メダルを獲得した。その勢いは今年に入ってさらに加速。ゲンのいい6月のニューヨークDLで44秒24の自己新を出し,7月のパリDLでは初の43秒台となる43秒96でジェームスに初勝利。短期間で約1秒も記録を縮め,世界チャンピオンにまで上り詰めてしまった。世界選手権後は欧州に飛び,9月3日のチューリヒ,同11日のブリュッセルとDL2大会に出場後,静かに凱旋帰国。40日ほどの休養を経て,来季に向けて始動した。
 南アフリカの最大都市・ヨハネスブルグから南西へ約400kmの距離に位置するブルームフォンテインに住み,当地のフリーステイト大学(州立大)に通うファン・ニーケアク。家族や友人,彼に400m転向を勧めた73歳の大ベテラン女性コーチ,アン・ソフィア・ボタらが総出で迎えてくれ,楽しく取材ができた。

「派手なことは性に合わない」控えめな性格

―― 世界チャンピオンとして帰国した際,どんな歓迎を受けました?
ファン・ニーケアク大げさなことはありませんでした。僕は大きなパーティーが好きではありません。世界選手権後,欧州で2レースに出場(注:チューリヒDL400mは44秒35で3位,ブリュッセルDL200mは20秒37で4位)。世界選手権から2週間経って帰国したこともあり,静かなものでした。特別なセレモニーはなく,家族や友達を含めた内輪のパーティーだけでしたが,それが最高に楽しかった。僕にとって重要なのは,1ヵ月以上も留守にした時間を埋め合わせるため家族と一緒に過ごすこと。数々のレースや北京での経験を聞かせ,家族からの積もった話,とりとめもない話も僕にとっては大切で,リラックスできる楽しい時間。ようやく家族とのごく普通の生活を取り戻すことができました。
―― 2010年の世界ジュニア選手権200m4位(21秒02の当時自己ベスト/優勝は日本
の飯塚で20秒67)があなたの国際舞台での最初の実績ですが,いつ頃から本気で陸上競技に取り組み始めたのですか?
ファン・ニーケアク子供の頃からスポーツが好きで,走るのが速かった。特にスピード感があるスポーツが大好きでした。陸上競技を始めたのは中学生の頃で,週3〜4日の練習。世界ジュニア選手権の結果が予想外に良かったので,大学にはスポーツ奨学金をもらって入学できました。
―― ケープタウン生まれで,ブルームフォンテインに移り住んだのはいつ頃?
ファン・ニーケアク中学生の時,家族の仕事の都合でここに移ってきました。その後,やはり家族の仕事の都合でヨハネスブルグに2年間ぐらいいましたが,高校最後の年に再びブルームフォンテインに戻ってきました。現在,フリーステイト大学(州立)の学生で,マーケティングを専攻。今年が最終学年です。
―― 世界のトップアスリートはほとんどプロ。競技と学業の両立は難しいのでは?
ファン・ニーケアク僕は奨学金を受けています。正直に言うと,学業との両立は楽ではありません。練習後,何時間も机に向かいますが,目的のための努力は当たり前。幸運にも,大学の先生,友人たちが非常に親切で個人的に指導してくれるし,もちろん家族の支えも大きな励みになります。僕のために勉強するスペースを与えてくれ,「ウェイデ,勉強しろ!」と声を掛けてくれる。また,ガールフレンドのチェスニー・キャンベルも常に勉強をサポートしてくれるなど,多くの人たちが愛情,友情を持って,僕の日常生活を多方面から支えてくれる。学業,練習に集中できる環境に心から感謝しています。世界選手権の優勝は,彼らの支援なくして不可能でした。
―― スポーツに理解のある家庭?
ファン・ニーケアクそうですね。両親とも元走高跳選手で,義理の父親(母親の再婚相手)が元長距離選手。弟は短距離選手で,僕を追っています。

400mは神様の導き

―― 本来は200mが専門。400mへの転向はどんな経緯でしたか?
ファン・ニーケアク200mが好きでしたが,短い距離だと極端にハムストリングスに負担がかかるので故障が多かった。大学に入学してから,コーチの勧めで,筋力をつける練習の過程として400mを走るようになりました。練習はきついのですが,効果がたちまち表れて故障が減り,400mのタイムもぐんぐん伸びました。これは神様の導き。僕は神から与えられた才能で,最大の努力・ベストを尽くし,最高のゴールを目指す。400mで頂点に達し,故障が回避できる筋力がつけば再び本格的に200mへ挑戦するでしょうが,現時点では400mに焦点を合わせます。
―― コーチとはいつ頃からの関わり?
ファン・ニーケアク2012年10月に大学に入学してからです。コーチは大学の陸上競技部を半世紀近くも指導しているアン・ソフィア・ボタ(73歳,かつては短距離と走幅跳の選手)。彼女は大学のヘッドコーチを25年間務めている。現在の僕があるのは彼女のお陰。2012 〜 13年の約1年間は故障続きでしたが,コーチの勧めで脚への負荷が少ない長い距離を走り込み,ウエイトトレーニングなど基礎体力作りに取り組んだところ,故障から解放されました。その結果,400mのタイムが驚くほど向上し,2012年の46秒43から2013年は45秒09まで短縮。その時にコーチと話し合い,「2015年の北京世界選手権は400mでメダル獲得」という目標を掲げ,そのための計画を作成しました。目標に向かって基礎から猛練習したわけですが,予想以上の結果に驚いています。
―― 今年は,200mも19秒94の南アフリカ新記録を樹立しましたね(注:7月中旬のスイス・ルツェルンでの競技会。そのレースでは,3位だった藤光謙司が日本歴代2位の20秒13をマーク)。
ファン・ニーケアクウエイトトレーニングで筋力が増し,故障なく練習を継続できると,スピードもついてきました。でも,200mのナショナルレコードは,6週間後の世界選手権で銅メダル(19秒87)を獲得したアナソ・ジョボドワナ(2012年の五輪200m8位,13年のユニバーシアード短距離2冠の実績もあり)にあっさり破られました。
―― 同じ23歳である彼は良きライバル?
ファン・ニーケアク彼とは長年,良きライバル関係にあります。彼が200mで僕の記録を破り,世界選手権で3位になったことも,南アフリカ陸上界にとって歴史的な快挙です。

キラニ・ジェームスは尊敬に値するライバル

―― 一躍国民的なヒーローになって,あなたの人生も大きな転機を迎えました。
ファン・ニーケアク南アフリカ国内で陸上競技の世界チャンピオンは珍しいので,それなりに注目されましたが,ライフスタイルが変わるとも思えませんし,変える必要などまったくありません。このままそっとしてほしいですね。
―― それにしても,400mに転向して以降の躍進ぶりはすさまじいものがあります。
ファン・ニーケアク2013年は6月のオストラヴァWC(ワールドチャレンジ大会)で2位だった時の45秒09が最高でしたが,あのレースではキラニ・ジェームス(グレナダ,44秒49)に完敗。でも,良い経験でした。故障から復帰し,400mに対して自信を持ち始めたからです。前年の欧州遠征では5位,6位ばかりで,タイムは46秒台。まだまだ力不足でした。2013年は7月のユニバーシアード(ロシア・カザン)で優勝候補に挙げられながら,準決勝3着(46秒39)で決勝進出ならず。8月のモスクワ世界選手権も予選落ち(46秒37)。まだ体力がなく,プレッシャーにも弱い選手でした。
―― しかし,2014年のシーズンに大きく成長しましたね。
ファン・ニーケアク2014年は予想以上に記録が伸びました。6月のニューヨークDLでは初めて45秒を切る44秒38で走り,優勝(44秒19)したラショーン・メリット(米国)に迫りました。7月下旬の英連邦大会(英国・グラスゴー)では44秒68で2位になり,キラニに続いて銀メダルを手にできたレースのインパクトは大きかったですね。コンスタントに44秒台で走れるようになったのですが,そこに至るまでの過程は,猛練習,伸び悩み,失敗など精神的に苦痛の連続でした。それを乗り越えた結果が現在に通じていると思います。
―― 今年は6月のニューヨークDLを44秒24の自己新で制し,7月のパリDLではキラニ・ジェームスに初勝利。しかも,初めて44秒を切る43秒96で快勝しました(注:ジェームスは44秒17で2位)。
ファン・ニーケアク僕は,パリで世界のトップクラスに躍り出たと思っています。目標にしていた壁≠破る,価値あるレースでした。世界選手権に向けて大きな自信になりました。前年まではレース前半を飛ばし過ぎ,最後の直線で失速するケースが多かった。そこで前半を抑え気味に入り,後半の200mで全力を振り絞るスタイルに変えたのですが,それが好記録に結び付きました。パリでは,運良くキラニが内側にいました。前半を良いリズム,スピードで走り,後半は彼と激しく競り合って初の43秒台に突入。1年前,僕は日記に「43秒は南アフリカの選手では不可能なタイムだ」と書いたことを覚えています。ですから,43秒台の記録が出たのには本当に驚き,歴史的な快挙を成し遂げたことが誇りでし
た。競争相手が誰かはそれほど重要なことではありません。常に自分のゴールに向けて最善を尽くすことをモットーにしています。厳しい練習の成果をレースで試し,自分の成長を確認することによって,現実的に次の段階にチャレンジができます。世界のトップ選手との争いの積み重ねで成長できると思います。
―― あなたにとってキラニ・ジェームスはどんな存在ですか?
ファン・ニーケアクキラニはジュニア時代から順調に成長してきた選手で,その点を見習うことが多かった(注:2009年の世界ユース選手権で200m・400mの2冠獲得,2010年の世界ジュニア選手権で400mに優勝)。さらに五輪,世界選手権で優勝するなど輝かしいキャリアを積んでいるし,僕にとっては今でも最も尊敬しているアスリートです。ジュニアで活躍した選手がシニアになって伸び悩み,消えていく例を多く見てきましたが,彼は違います。

忍耐強いボタ・コーチの慧眼

―― コーチが重視している練習ポイントは?
ファン・ニーケアクボタ・コーチは,僕の才能を高く買ってくれて,最初に僕の両親を含むミーティングを持ちました。「スポーツと学問の両立」を指導方針として唱え,肉体が不調なら直ちに練習を中止することもある。軽い練習に切り替え,基礎練習を徹底することもある。厳しくも,僕の才能を忍耐強く,時間をかけて伸ばしてくれました。
―― ブルームフォンテインは標高が約1400mですが,ロングスプリントに高地練習の効果はあると思いますか?
ファン・ニーケアクそのようなことを考えたことはありません。練習環境,国籍などの違いは関係ないでしょう。というのも,南アフリカに関しては,高地云々で好結果を出したような例は長い間見られていません。北京世界選手権で南アフリカのスプリンターが活躍しましたが,国内に将来性豊かな才能ある若手が控えているので,彼らへのサポートにも大きな期待ができます。アスリート自身の努力と明確な目的意識が最も大事なこと。努力なくして,才能だけで世界を目指すことはできません。
―― あと0秒3まで迫っている世界記録への挑戦は?
ファン・ニーケアク僕は深い信仰心を持っています。僕のスポーツの才能は神から授かり,祝福されたものと信じています。これからも神にすがり,神が支えてくれるでしょう。現在の世界記録はマイケル・ジョンソン(米国)のものです。彼の記録への挑戦はまだ先のことになるでしょう。僕も,やがて歴史を刻むような輝かしい実績を残したいものです。
―― 来季はジェームス,メリットらに追われる立場になりますが,リオ五輪に向けてのプランは?
ファン・ニーケアクコーチに絶対的な信頼を寄せているので,すべて任せています。まだまだやることはたくさんありますが,順位,最高記録,アベレージ記録といった今年の戦績,故障がなかったなどを総合的に考えると,練習内容を変える必要はないと思います。ただ,もっとスタミナをつけなければいけないでしょう。来季はリオに向けてレース数を少なくするつもりです。どのレースも重要ですが,やはり五輪は特別なもの。ベストを尽くし,運を天に任せます。北京世界選手権では,フィニッシュ後は精根尽き果ててしまい,テレビのインタビューに対応できなかったのは僕だけ(注:担架に乗せられ,医務室に直行し,メダリスト会見も欠席)。でも,リオでのフィニッシュ直後はしっかり自力で立ちます。
―― リオ五輪イヤーの活躍を楽しみにしています。

*孫もいるという73歳の大ベテラン女性コーチは写真撮影を嫌い,残念ながらファン・ニーケアクとのツーショットだけでなく,コーチ単体のショットも抑えることができなかった。指導者も選手も控えめな性格だが,内に秘めた気持ちの強さはいかほどか。師弟の今後に注目したい。

 
●構成/望月次朗(Agence SHOT)
●Interview & Photos / Roger Sedres
(2015年月刊陸上競技12月号掲載)

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